2022.12.31 社会をよくするとは/壊れたトロッコ問題
社会を良くしたい人が周りにたくさんいる。自分もそういう人間だ。
でも、社会をよくするとはそもそも何なのか、ちゃんと考えたことあるのだろうか?目の前の仕事や自分の生きてきた文脈からしか、多くの人は捉えられていないだ。自分もそうだと思う。
そして、多くの場合、仕事をしているうちに、個人的な「社会をよくする観」が強化されて行ってしまう。
こんな見方もあるのでは?という気がして、恐らく多くの人が考えたことのないであろう「社会をよくするとは」を考えてみるのが、この文章の目的だ。
人類はこの先どうなるのか
2022.10.16 人生/意味/感情/楽しみ/幸福/習慣の冒頭にも同じことを書いているが、
人類ってこの先どうなるのか、まぁ、最終的には、太陽系の活動の停止なり、宇宙の終焉なりで、人類自体は絶滅するだろう。
それはおいておいて、恐らく数百万年~数十億年程度は、人類は滅亡せずに歴史を紡いでいくだろう。
壊れたトロッコ問題
そう考えると、今この時代に生きている人間の数よりも、未来に生きている人たちの方が圧倒的に数が多いはずだ。つまり、1000年後から1万年後を生きている人の方が多く、1万後から1億年後まで生きている人の方がもっと多い。
さて、関連するけど敢えて違う話をしてみる。自分は新海誠の映画が好きだ。
もともと見始めたのは、恐らく多くの人と同じで、「君の名は」からなのだけど、その後、「天気の子」、「すずめの戸締り」と見ているのだけれど、どれも好き。なんとなく、自分のプライベートの節目節目的なタイミングで公開されるのもあって、観に行ったこともよく覚えていたりする。
ただ、彼の映画がハッピーエンドで終わるのはどうしても許せなくて、どう考えてもこの3作品に関してはハッピーエンドで終わるのは面白くない、と思っていて、それで過去の作品、「言の葉の庭」、「ほしのこえ」、「雲のむこう、約束の場所」、「秒速5センチメートル」と見返していって、こういう映画の方が、ハッピーエンドで終わらなくて自分的にしっくりきた。ただ、興行的なことを考えると、どんなに切ないしどんなに何かどうしようもない展開でも、最後はハッピーエンドで終わった方が、万人受けはするのだろうなぁ、という気もするので、仕方ないかなぁと思っている。
話が逸れたが、彼の映画で良くテーマになるのが、「世界を救うか、愛する1人を救うか」という問題である。映画的には、まぁどちらも正解だと思うし、実際この場面に自分が遭遇した場合、どちらを選択するかは正直わからないけども、その場面をちょっと離れて考えてみると、本当にその場で生きているベースでも80億人が住む世界がなくなってしまうなら、正直愛する1人より80億人の住む世界を救った方がいいと思う。
この問題は、ようはトロッコ問題の拡張なわけだけれども、敢えて通常のトロッコ問題で問われるような、数人を救うために1人を犠牲にできるか、という問題から、「数人」の部分を「ほぼ無限大」の人数に拡張している。
個人的には、この問題を「壊れたトロッコ問題」と名付けたい。ここまでの人数差がついてしまった場合には、功利主義云々を置いておいて、「ほぼ無限大」の人を救わざるを得ないと思う。あらゆる人間は、「ほぼ無限大」に含まれる可能性の方が多いわけだが、その立場からすると、正直1人の勝手な都合で自分が死んでしまったら、大迷惑甚だしい話である。大迷惑だ、と思う人が圧倒的に多いから、そんな決断は正当化されない、という感情論以外特に根拠はないのだけど、まぁ、何をどんな論理をこねくり回したところで、この感情論に勝てるものは自分に思いつかないので、これを正として考えたい。
話を戻して、「1000年後から1万年後を生きている人の方が多く、1万後から1億年後まで生きている人の方がもっと多い」という状況は、まさに「壊れたトロッコ問題」そのものである。今の日本には1億人の人が住んでおり、世界には80億人の人たちが現在進行形では住んでいるわけだが、毎年1億人(今だと1億4千万人程度?)の人が生まれている状況を考えると、1000年後までには1000億人、1万年後までには1兆人、1億年後までには1京人の人間が生まれてくるわけだ。この状況において、「社会を良くしたい」場合に、仮に自分たちとその親世代・子世代くらいのみをターゲットにして何らかの「社会を良くする」アクションを起こすことは到底正当化できるものではないと思う。そして、もしできるのならば、無限大に近似される将来の人類のためになるようなことをしていくことが、最大の「社会を良くする」取り組みとなるのではないだろうか。
何ができるのか
シンプルな回答 -人類の夢-
何か、いわゆる「人類の夢」的なことに向き合っている人たちは、この意味でとても尊敬している。し、恐らく、上のような言葉を使うかはわからないけど、似たようなことを考えているような気がしている。
イーロン・マスクやジェフ・ベゾスが宇宙を目指したり、ビルゲイツが感染症の根絶を目指したりしているのも、こういう意味でとてもよくわかる。
凄く雑な追記として、アーティストもこういったものに関わることを行っている気がして、それも良いことだな、という気がしている。
アプローチ可能性の問題
ただし、上で書いたような、人類の夢的なものに、人間が抱える問題は限らない。
他にもいろいろな「社会問題」は多様にあるわけで、それぞれの問題への取り組みも、何らかの形で未来を生きる無限大の人口に影響を与えている。ただし、その影響する経路は複雑すぎて、今を生きる自分たちが行った取り組みが、長期的にどのような影響を与えるか見通すことは甚だしく困難だ。
とはいえ、そういった「複雑な」問題に対しても、現在において何かしら取り組んでいく際の、社会を良くしていくうえでの「壊れたトロッコ問題」から考えてできることは、多少なりともある気がしている。以下に2つ、現時点で考えていることを書いてみる。
とはいえできること:1 -「時期尚早」と言わせない-
何か高齢者にはできないとか、技術的にまだ社会に受け入れられるか分からないとか、そういった理由で進まない取り組みが日本社会には沢山ありますが、こうやって技術の発展を止めてしまうような言い方は、未来を生きる人類から見れば大迷惑だと思う。
失敗したら、失敗しない形で、やり直せばいい。未来に生きる人間の方が遥かに多いのだから、今の時代での失敗など、許容されるべきだ。失敗の先に、発展があるというのは、当たり前のことで、どんな人間だって、小さい子供のころにたくさん失敗して、その先に成長をしてきているはず。人類だって同じこと。
ただ言い方を変えただけでも、「時期尚早」等という言葉がつくあらゆるものを進めないのは、1000年後以降の人類に対してのマイナスが大きすぎると思う。例えば、マイナンバーカードの普及、遠隔診療の解禁、義務教育のリモート化、選挙の電子化、こんなことは、当たり前のように進めていく必要がある。
とはいえできること:2 -その場しのぎで解決しない・人類一般レベルでの解決を目指す
何か社会問題を解決を目指すときに、自分の親世代・自分の世代・自分の子世代、追加的に自分の孫世代くらいの都合が良いような、その場しのぎの解決策を目指してしまうことって結構あるように思う。
その解決策を考える時に、どの時代を生きる人類一般にとっても解決策となりうるような、考え方の方向性を追求していくことが、未来の人類のため、という観点ではとても大事だと思う。
恐らく、未来においてはその社会の構造も使える技術も違うので、完全に同じ解決策になるとは思わないけども、解決策を考えていく方向性、というのは時代を問わずある程度共通化できる気がする。その際にヒントとなるのは、その解決策の方向性によって、どのような感情に人間はなるのか、ということだと思う。未来を生きる人間だって、同じ人間で、恐らく、同じような感情のバラエティを抱く生き物だと思う。