2/1 あのときの話

1月が終わりましたね。

1月は、サークルの幹部引き継ぎ、国際交流ボランティア、そしてテスト期間でバタバタしてました。明日一番やばいテストだけど謎の余裕が湧いてきたから書く気になった。笑

2月はこれまでの人生で一番予定が埋まっている月です。新しいバイト、サークルの追いコンとそれまでの合奏練習、国際交流ボラ…と仕事のてんこ盛り。間に旅行が2件と、飲みの予定がいくつか。楽しみですね😇


さて、テスト勉強をサボってまで今日noteを書いているのは、今日が2月1日だからです。

この一か月で私なりに整理できたことを、備忘録として書きます。

※以下、地震の話をするのでご注意ください。

能登の地震の体験記としては、能登町で被災されたみつごごさんのnote記事が分かりやすいのでご紹介しておきます。

では、さっそく。



発災当時の状況


元旦は例年通り、家族全員で8時に新年のお経をあげることから始まり、おせちとお雑煮を食べて、父・姉・私で初詣。近所の氏神様と尾山神社に行くのが恒例。

お昼ごはんはおせちの残りをつついたり、各々好きなものを食べて、各々好きな場所でゴロゴロ。私は2階の自分の部屋が寒いので、1階の茶の間で耳の遠い祖父と大声で話していました。笑

そんな感じで夕方に。午後4時すぎ、まずそこそこ大きな揺れが来ました。茶の間にいたのは、多分私と祖父(混乱してあんまり覚えてない)。
ここ数年能登はちょこちょこ揺れていたので祖父は「揺れたなあ」ぐらいでしたが、進学で実家を出た私は、2年間一回も揺れを感じるほどの地震にあっていなかったので、ただ事じゃないと思い、すぐにテレビをNHKに変えました。緊急ニュースに切り替わった画面には、珠洲の屋上カメラの映像。祖父と同じく「揺れたなあ」と、他の家族も茶の間に集まってきました。

その瞬間。

ケータイの緊急地震速報とテレビの警報が鳴り、次の瞬間、ゴゴゴ、と地鳴りのような音が聞こえて、激しい横揺れに襲われました。

私はとっさにこたつに頭を突っ込みました。テレビを押さえていた母が「うちつぶれとるがいね!」と言うので、我が家が潰れているのかとめちゃくちゃビビりました(珠洲カメラに映っていた家が潰れていたらしいです)。

体感では、1分ぐらいでした。

そこからはあまり覚えていないのですが、大津波警報が発令され、干拓地がそこそこ近い我が家は、大津波が来たら水が来るのでは、また、熊本地震みたいにさらに強い揺れが時間差で来たら、と避難の準備をして、家族全員玄関先まで出ました。

すぐ目に入ったのは、お向かいさんの玄関先の、落ちて壊れた石灯籠。情報収集に近くの雑所(ざいしょ、住宅密集地)から出てきていた若い人がとりあえず道路から出していました。
お隣は町会長ご夫婦。旦那さんは情報収集のため町中を車で見に行き、防災士の資格をもつ奥さんが家から出てきた人たちにそれを説明していました。

そうしているうちに、家の前の道路が混雑してきました。近くの干拓地から高台に避難する車のう回路だったみたいです。

それからニュースを見たり、友達からの安否確認LINEに返信したりしていましたが、結局避難はせず家に入りました。

午後5時過ぎ。これだけ大きな地震だからしばらくの食料を買いに行く、と父と姉が出かけました。最寄りのコンビニは既に空、2件目でカップ麺を買って帰ってきました。

私はけっこう神経質なので、レンチンのうどんをお汁茶碗一杯すするので精一杯でした。

その日の夜は、普段2階で寝ている父・母・私は、揺れると怖いので茶の間で寝ました。日テレさんが月曜から夜ふかしを通常通り放送していたので少し気が紛れましたが、寝ることはできませんでした。発災から止まらない震えをやっと鎮められたと思ったら余震が来るので。そんな感じで長い夜を過ごしました。

2日からは民放は正月特番を流してくれていたので、余震にびくびくしながらも無心でキャンディソーダをやって乗り越えました。2日からは疲れも溜まっていたので2階の自室で寝ましたが、強めの余震で2回は起きていました。
うちの地域は停電も断水もなく、スーパーが少し品薄かな、ぐらいでした。

ふぅ、やっぱりちゃんと思い出すとちゃんと怖いな。

ここからは、当時の状況を振り返って思うことを書きます。

1, 実家について


私の実家は、「築100年+増改築」という家です。先ほど「2階は揺れると怖い」と書いたのですが、築100年部分の上に増築した2階なので、一般的な2階の倍は揺れます。大きめのトラック通ったら揺れる。
そんな我が家ですが、結論から言うと大きな被害はありませんでした。私の部屋が一番くちゃくちゃになっていたんだけど、写真撮ればよかったと思ったのは片付けた後だった。多分、変な気を起こして()正月から机で課題してたら、倒れてきた本棚(机にひっかかるからそんなに倒れない)か落ちてきた本で軽く頭を打っていたと思う。
震度5強、よく耐えたなあ。

しかしこれでは長く住めないと母は顔を青くして言っていたし、私も姉も就職や結婚で実家にずっといる保証はないので、真剣に考えてほしい、と伝えました。

とはいっても、祖父母、特に祖父にとっては生まれてからずっと住んできた家。発災直後、町会長は住民の要請があれば近くの集会所を避難所として開けると言っていましたが、どんなに私たちが怒っても祖父は行かないの一点張りでした。結局、誰も避難したいと言わなかったため集会所は開きませんでした。
3.11のときも言われましたが、ハザードマップで何色だとか、もしまた大きな地震が来たらとか、そこに住む危険性を伝えたところで、お年寄りは家がある限り梃子でも動きません。それだけの想いが、家に、地域に、人に詰まっているのです。20歳の私だって、実家があの家、あの町じゃなくなると思ったら寂しいです。だから、簡単に「災害時に孤立するようなところに住むな」みたいなこと言えないんです。

2, 防災のこと


うちは、防災意識低いです。一応緊急持ち出しのリュックはありますが、水と非常食が少し入っているだけ。その他町で配られた防災ずきんやアルミシートが少し。

発災直後に逃げるってなった時、私はとりあえず財布とケータイと充電器を上着のポケットに突っ込み、他の家族も貴重品だけはとりあえず持っている、という感じでした。

でも正直な話、非常用かばんを持って出られる状況って、限られていると思う。地震では家は無事、津波や液状化など、少し時差のある災害から逃げるときは持ち出せるけど、地震で家が崩れたら多分それどころじゃない。

とはいえ、備えておくことは大事。家にいても、停電や断水、地域の孤立など、食料や防寒具が必要になることは多いから。

3, メンタルの話


3.11のとき、小学校1年生だった私は繰り返しテレビに映る地震や津波、原発の爆発の映像で食欲が失せ寝込みました。
今回は体験したので、1日と2日で体重が2キロ近く落ちました。が、3日にすき焼き食べてちょっと戻った。

前後するけど、1日の夕方、母と余ったごはんをおにぎりにしながら、弱音を吐いてしまいました。

今すぐ電車に乗って石川を出たい、と。

当然電車は止まっているので無理なのですが、もともと帰省するつもりがなかったこともあり、そんなことを言ってしまいました。極限の緊張状態だから涙は出なかった。家族で唯一、実家以外に住んでいる私が、嫌でも家を離れられない母にそんなことを言ってしまったこと、人生でいちばん後悔しています。

2日と3日は、私は一歩も外に出られませんでした。まあ出る理由もないのですが、激弱メンタルの私は家族から町の被害状況を聞くだけで精一杯だったので。
SNSも見ないようにしていました。発災直後は情報の速さを理由に開いていたけど、夜からは「生き埋めになっています、助けてください」というツイートやデマ、ありがた迷惑なボランティアの話が出回っていたので、見るのをやめました。情報は速いけど助けにいけない人の叫び声まで聞こえてしまうSNSは、災害時には諸刃の剣だな、と思いました。

4日になって、天気もよかったので父がドライブに誘ってくれました。金沢市街地でも道路が陥没したりマンホールが飛び出したりしているのを見て、言葉を失いました。ここら辺でもそうなら、能登の人たちの心情は計り知れないと思いました。

5日、母が金沢駅まで送ってくれました。いつもなら駐車場で下ろしてすぐに帰るのに、その日はやはり不安だからと、お土産を買って改札を通るまで見届けてくれました。母の愛の温かさと、地震の恐怖から解放される安心感と、私だけ石川を離れることへの申し訳なさが全部混ざって、改札を通るとき「ありがとう」と言いながら泣いてしまいました。しばらく泣き止めなかった。

あとがき


おお、3600字…!期末レポートもこのぐらいスラスラ書けたらいいのになぁ。

こんな感じで、私の地震体験記を書いてみました。

これをどれぐらいの人が読んでくださるのかわからないけど、どんな形でも石川県に支援してくださり、ありがとうございます。

1日の夜、余震の度にサイレンが聞こえました。後から分かったのですが、隣町の大きな駐車場に全国各地から応援に来た消防車が集まっていたようです。4日にドライブしたときも、5日に駅まで向かうときも、何台か県外の消防車を見かけました。さらに2日の午前からは、実家の上空を自衛隊のヘリが絶えず飛んでいました。それだけで「ああ、大丈夫だ」と少し心が安らぎました。

私と同じような経験をした人、たくさんいると思います。

これもこぼれ話なのですが、築100年の家は無事でしたが、徒歩1分のお寺の墓地で、うちの墓だけ、骨壺が見えるほどに壊れていました。冷静に考えればいろいろ要因はありますが、家の代わりに墓が壊れてくれたんだ、と家族で言いました。

私が「被災者です」と言うのはおこがましいですが、当たり前だと思っていた日常が壊れそうになる経験をして、安っぽい言い方ですが、命の大切さを強く実感しました。ご先祖様に救われた命、精一杯生きようと思いました。

だから2月予定ツメツメだけどめげないよ!!





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