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劇団昴「広い世界のほとりに」を観て

劇団昴の芝居の感想を客観的に書くのは難しい。

昔研究生で、それなりに頑張っていたが劇団には残れなかった。それはそれなりに傷ついたし、家族の病気で実家に帰っていたし、距離を埋めるチャンスがなかった。ずっとずっと遠くで思い出で、痛みの象徴だった。

同期の親友に誘われて3人組で観に行った。みんなの共通の感想は「昴は昴だった」ということ。いい意味で。

姉崎さんにはメイクを教わったことがある。「茶色の陰影よりピンクがオススメ」と言われて、当時ピンクメイクも流行っていたし、普段も含めてその知識を実践してめちゃめちゃ役立った!

そのオシャレな姉崎さんがおばあちゃん役で出ていることに、衝撃を受けた。もちろん役者さんだから何にでも化けるとは思うが、強烈に時間の流れを知らしめられた。

もしこれを20年前に見ていたら、受け入れがたかったかもしれない。私はその頃はまだ、自分が芝居を辞めたことを受け入れていなかったのだ。

「広い世界のほとりに」は、三世代の家族の中で一番若い青年を失ったところから物語が一気にきしみだす。その苦痛、寂しさ、苦しさと家族として、個人として、向き合い受け入れられるかどうかが、軸になっていると思う。

受け入れるというのは哀しむ覚悟をすること。許す覚悟をすること。歩みだす覚悟をすること。

どれもこれもエネルギーが要る。しかも決めたからには止まってもいられない。単に勇気だけではなく行動と責任が伴う。「受け入れる」というのは「受容」ではとどまらず「能動」的な行為なのだ。

もう千秋楽になったのでネタバレしても困らないとは思うが、ストーリーを説明するには一回観ただけでは分からないことが多く、書いていいか迷う。

しかし他の(昴のだけではなく2008年ごろから上映されていた他劇団のも含む)劇評を読んだところ「理不尽な展開もある」とどの方々も書いているので、わからなくてもいい部分もあるのだろう。

特に謎なのは家族以外の面々の役割と存在意義。

アリス(2世代目の妻)が浮気しそうになる相手は、息子を轢いた男なのか?ピーターが浮気しそうになる相手は、インテリぶってるくせに「匂わせ」にも程がないか?

特に前者については、急激に距離感が縮むあの感じ。距離感縮むにしても妙にリラックスしてるようにさえ見えるあの感じ。

その理不尽は演出的なのか偶発的空気なのか。

大変率直に言って役者一人一人の力量で最初から最後まで引っ張って進行したが、演出不在の舞台であった。面白かった。役者が上手いから。

でもこの舞台はそれでよかったのか。

私が思うに、この舞台は特に前半は、坂道を転がるトロッコみたいに、急速に、時には小分けしたドラマが同時進行するくらいの勢いで進行すべきだったのではないかと思う。ラストの方に回想シーン的に、これまでの役者の台詞がエコーし合いながら重なり、走馬灯のように繰り返され聞こえてくる演出になっていたが、あれくらいの速さや被りがあってもよかった気がする。そして紙芝居のあるページに来たとき、急に、が。が。が。っとブレーキがかかって彼が逝ってしまう。

家族全員が一気にねじれた世界に迷い込むと同時に、あんなに転がっていた世界が一気にきしみだす。

そのように見せてほしかった。

ラストで女性たちがお料理の仕上げをして、男たちは間抜けにテーブルを拭いたりしていて、いかにも男女の役割が分裂していた。

2005年に書かれたイギリスの本ということで、ジェンダー的にも日本もイギリスも、男はろくすっぽ家事ができないのが普通な時代かもしれないが、ラスト近くなっても飲んだくれてた男どもは、揃いも揃って家じゃホントだめだなぁって感じで、本当にハッピーエンドなのか、問いかけたくもなる。

確かに家族の再生の話かもしれないけど、ひとりくらい家事にとっくに目覚めてる男や、幸せっていうのは家族一緒にいることじゃないと、出ていってしまう女性がいたってよかった。

まあそれは演出というより、脚本の問題なのか?

あと脚立が謎に高すぎた。怖くて見ていられなかった。何が何でも舞台装置のあんなに高いところを刷毛で塗りたくる所作が必要だったのか?そのスリリングさが吊り橋効果みたいにピーターとインテリスーザンを近づけたのか?

脚本が手元に欲しい。

昴の舞台は丁寧だ。そして新劇の誇り高さも見応えを感じさせてくれる。それだけでも見応えがあるが、意図しない謎を残してしまっているなら、ぜひまた演出家とがっぷり四つに組んで、緻密にも豪胆な舞台を拝見させてほしい。

自分の経験をもとに思いのまま書いていきたいと思います。 現在「人工股関節全置換手術を受けました」(無料)と 「ハーフムーン」(詩集・有料・全51編1000円)を書いています。リハビリ中につき体調がすぐれないときは無理しないでいこうと思います。