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環境問題という茶番

東大卒の方には申し訳ないが、近年の東大王的なマスコミ露出はやや常軌を逸しているというか、すでに滑稽ですらある。知の在り方として、安すぎるというべきだろうか。

一問一答的なクイズ問題に答える能力は確かにその人の優秀性を測る物差しとして重要な指標ではある。だが、本当はそこから先が重要だというのに。

例えば「アボカド」の世界的産地はどこ?という問いに答えられることはたいして重要な事ではない。答えは南米チリ。だが重要なのはチリという地名にあるわけではない。アボカドは「欧米人」たちのヘルシーで意識高い生活を潤す「森のバター」として名高い。幸い僕はアボカドが大嫌いなので食べないが、このアボカドは多くの水分を必要とし、おまけに土地の養分を吸い尽くす植物でもある。

アボカドを大量生産し世界に輸出するために、チリは生活用水が枯渇し、水道代が高騰。水ビジネスが幅を利かせ、水利権をめぐってギャングが跋扈している。チリに住む人々の生活を脅かしてもなお、欧米人たち(もちろん我々日本人も含まれるが)の生活を潤す為にせっせと栽培を余儀なくされている。

あるいはパーム油の産地であるインドネシアやマレーシアではアブラヤシの栽培面積が今世紀に入って倍増。熱帯雨林の乱開発に一躍買っている。

こういった問題は結局我々の「快適で清潔で道徳的にアップデートされた意識高い」生活のために発生していることはちょっと考えればすぐわかることだ。

これを昔ながらのマルクス主義なら「搾取だ!」と叫ぶところであるが、多かれ少なかれこの手の搾取の構造は見えにくくなっているだけで、マルクスの時代から大して変わっていないのが現実だ。

我々は既にそういう「搾取の構造の中」にどっぷりと組み込まれており、そこから抜け出すことは殆ど不可能なまでに文明社会を発達させてきたのだ。今更狩猟民族に戻ることは出来ないし、狩猟民族に戻るには余りに脆弱になりすぎた。

最近某高学歴美人タレントが「環境に配慮した商品かどうかを店員に尋ねる」という発言をして炎上しているようだが、そういった言説に反発する連中を「よくあること」と冷笑する学者の援護射撃なども登場しSNSは賑やかだ。

例の国連でのスピーチが話題になった14歳の意識高い系の女の子への反発もそうだが、「環境に配慮するなら飛行機を使うな」的な極論による攻撃は確かに個人的には稚拙な反論と言わざるを得ない。問題はもっと根深い。

環境配慮への意識を高めるための言説で僕自身が痛切に感じるのはその偽善的な匂いである。もちろん偽善は決して「悪」ではない。偽善でも何もしないより事態をましな方向に進めることは出来得る。

だが、地球環境問題に関して言えば、マシな方向はほぼない。ゼロか100しかないのだ。結局何の解決も出来ないスローガンをしたり顔で連呼する姿は「安全に痛い」批判(自分は安全で快適な場所に居ながら自己批判を含む批判をする態度)であって、そういうナルシスティックかつ偽善的姿は醜悪でしかない。

「環境に配慮した商品か」を問う事への反発はその手の胡散臭い偽善をなんとなく嗅ぎ取った結果であって、「自分への批判に感じて反発」したなどという単純な話ではない。

近年のコロナ禍で明らかになったように、我々は結局自分の身に不利になる経済的な束縛・制限には耐えられないのだ。そういう意味で地球環境問題は本気でやったら廃業を余儀なくされる産業、労働者が続出することは火を見るよりも明らかだ。

地球規模で環境問題に本気で取り組むとなると経済的影響は緊急事態宣言だのロックダウンの比ではない。「急激なものではなく、漸進的な改善」とか穏健派は言いそうだが、それでは実は多分間に合わない。

エコバックだのSDGSだのは、一部の意識高い系の似非インテリの偽善でしかなく、環境問題には本質的には全く寄与はない。

じゃあどうすりゃいいのか?そんなのは簡単だ。人類が遅かれ早かれ滅亡すればよいのである。最も合理的かつ完全な解決法は人類が滅亡することだ。地球環境に最も優しい解決法である。

個人的には僕は地球環境は人間にとって都合よくコントロールすることは不可能であると思っている。それは如何に科学技術が発達してもだ。

地震にせよ津波にせよ、豪雨、豪雪、台風、干ばつ、など我々にはコントロールは出来ない。そもそも地球は人間様の為に都合よく出来てるわけでもない。キリスト教的世界観ではこの世は神が我々人間の為に作られたという事になっているが、そういう世界観は宗教上のおとぎ話であって、事実ではない。

宗教上の話でなくとも「人類は食物連鎖の頂点」→「地球が人間のためのもの」という恐ろしく飛躍した論理・世界観は意外にも我々に深く根付いているのことは、驚くべきことだが、かつて我々が宗教を必要とした頃の名残であろう。(ヘーゲルの影響もあるよね)

我々は悲しいことに自分たちの狭い範囲での経験値で世界を把握しようとしてしまう悲しい認知バイアスを多かれ少なかれ有している。

僕が大学生の頃までは西日本では大きな地震は起きないと言われていた。ところが1995年に阪神淡路大震災が起きる。大きな地震は起きないと言われた根拠は1946年の南海トラフ地震以降大きな地震が50年近くなかったという事実だけである。

近年はさすがにそんな能天気なことを言うジャーナリストも学者も居ないが、地球のメカニズムから考えて今後どんな大きな地震が起こるかはまともな予想は出来ない。せいぜい10年スパンで起こる確率が何パーセントか、くらいである。

地球の気温についても実は長いスパンでみれば寒冷化した時期もあり温暖化した時期もある。たまたまここ数世紀は人間どもにとって都合の良い気候だったに過ぎないという可能性(しかもかなり高い蓋然性をもった可能性)に何故至らないのか不思議である。今週雨が降らなかったから明日も晴れだと推論する者がいたら愚か者だと普通思うだろうが地球規模で実は人間が愚かである可能性は高い。

かのホーキング博士も人類はあと100年後には滅亡しているであろうという予言を残してこの世を去ったが、僕自身はこの予言は決して荒唐無稽の物ではないと本気で思っている。

シンプルに考えてもかつて地球上に君臨していた恐竜の隆盛していた年数の方が文明社会より遥かに長かったのだから、人類が滅亡してもおかしくもなんともない。地球様に痛くも痒くもない話である。

人類の叡智に期待する楽観論も良いが、僕はそこまで人間に信頼は置いていない。そういう立場からすると環境配慮云々という話は、僕には出来の悪い学芸会のお遊戯か茶番にしか聞こえない。

地球環境はもはや「一人一人の心がけ」で何とかなる規模ではないのだ。マスコミが垂れ流すニュースは別に世界の全てではない。いや本当にごく一部のローカルな話に過ぎない。そもそも世界の全てを本当に見渡すことは実は最初から不可能なのに、それが可能だと思い込んでいた我々の傲慢さを嗤うしかない。

宇宙規模でみれば地球など小さいし人類の存亡などごみのようなものだ。ましてやそんなちっぽけな惑星の全貌すら我々は正確に把握できない。そんな人類に何が出来るというのだろうか?

ならば今の「生」を僕らはただ慎ましく満喫する以外にやれることはなさそうである。




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