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「わたし」は本当に「私」だろうか?

マトリックスというハリウッド映画があったが、この作品が生み出されてもう随分経つ。
ふと調べたら第一作が公開されたのが1999年だから20年以上前の作品だ。

日本の漫画作品である「攻殻機動隊」に着想を得て作られた作品だということは作品が公開された直後くらいに知ったが、個人的には十分オリジナリティのある作品だと思う。

今マトリックスという映画の詳細には立ち入らないが、作品のストーリーの核心部分は今の僕には20年前と随分違った印象を与える。

ここで言う核心とは主人公の脳が実は機械に繋がれていて、今まで見せられていたリアルな現実は巨大なコンピュータに見せられていたバーチャルリアリティーだったという(当時としては)衝撃的な展開のことだ。

核心とは言ったが、もちろん物語はこの衝撃的な展開からクライマックスへと突き進む。その詳細は本編を見てのお楽しみだ。

デカルトの有名な「方法序説」にある「我思う故に我あり」を導いた過程に於いて「今自分が見ている現実は狡猾な悪魔が自分を騙しているだけなのではないか?」という疑義を呈する箇所があるが、まさにその事を映像で再現したシーンであると当時の僕は感じた。

映画では主人公ネオを導くモーフィアスが錠剤を提示し、現実に目覚めよと迫る。
だが、モーフィアスが言う現実とは本当の現実なのか、それとも現実と言ってるだけで、新たな別のバーチャルリアリティなのか実は判然としない。

僕はそこに引っかかったままこの映画3部作を見てしまった為にとても後味の悪い作品として僕の脳裏に記憶された。

今お前が信じている世界は真実ではなく錯覚である。真実から目を逸らさず覚醒せよ。

この手のメッセージは今ネット社会では飽きるほど繰り返される一つのテンプレでもある。

ネットメディアがない時代なら「ムー」などのオカルト雑誌の戯言として一笑に付されただろうが、今日のリアルニュースとフェイクニュースの相剋を想起すればその厄介さは容易に理解出来ると思う。

メディアリテラシーとか叫ばれつつも、何が真実で何がフェイクなのか?実はそれを明確に確信出来る事は難しい。まさに「狡猾な悪魔」が現代のテクノロジーを駆使して真実らしい嘘で人々を「洗脳」する事は十分可能だからだ。

そういう意味で僕らが真実であったり現実だと思っていたことがある時反転してしまう事は必ずしも荒唐無稽なことではない。

同じような物語の構造を持つ作品にトータルリコールというSF作品がある。シュワルツェネッガーが主演したSF作品で後にこれのリメイクも作られているが、僕はリメイク版は見ていない。(オリジナル版は僕が高校生くらいの頃の作品だったと思う。)

これも僕には後味が悪い作品だったのだが、一緒に見に行った友人や作品を見た他の友人ともこの映画の結末で感想が僕と全く違っていたのが当時ショックだった。

ざっくりストーリーを言うと、近未来の世界で平凡なサラリーマンが自分の望むリアルな夢を見ることが出来るリコール社のサービスを購入することから物語がスタート。

その夢の中では主人公が望むスーパーヒーロー(有能な諜報部員)として活躍するリアルな夢を見ることが出来、それによってストレスを解消出来るサービスだ。

だがその夢にダイブする途中で事故が起きる。
なんと見たい夢として設定した自分が実は「本当の自分」だったと言うことが判明。(ここまでの展開は「コブラ」と全く同じ)

彼は有能な諜報部員として活躍し多くの人の命を救った、めでたしめでたしと言うストーリーである。

これだけだと単に痛快なハリウッド映画なのだが、僕には嫌な後味が残った。

結局本編の壮大なアクションシーンは作中の現実なのか、それともその映画の結末すらただリコール社に見せられていた「夢」だったのか、最後まで分からないのだ。

もちろん前者なら楽しいアクション映画、後者ならバッドエンドである。高校生の頃の僕はバッドエンドとしてこの映画を解釈してしまい、ちょっと気持ち悪い気分になったことは今でも覚えている。

随分と話が横道に逸れたが、僕たちは大抵「夢と現実」の区別はつくと思う。
睡眠時にどんなに荒唐無稽な夢を見ても覚醒すれば夢だったと判断出来るし、夢の中で見た世界が現実で今覚醒して見ている現実が実は夢だったとは思わないのが通常の感覚だ。

だが近年の脳科学の発展でわかってきた事は、実は僕たちが覚醒時に見たり感じたりしているこの世界自体も実は脳のニューラルネットワークに見せられているバーチャルリアリティみたいなものであるということである。

ただし僕らはマトリックスの主人公のようにそのバーチャルリアリティから覚醒して「真の世界」を見る事は出来ない。

僕らが喜怒哀楽を感じたりしている自意識である「わたし」さえも実は脳に思い込まされてる人格である可能性がある。

西洋思想の「自我」「自由意志」を前提とするならばこんな恐ろしく空虚な話はない。
まさにニヒリズムの極地ではないか。

高校生だった10代後半から30代半ばまでの僕はこの結論を絶対に受け入れることが出来なかったと思う。

だが今は不思議と「案外そうかも知れない」という気持ちになりつつある。

僕たちが生活しているこの社会自体が意識的にせよ無意識にせよ西洋的なものの考え方を前提に構造化されている。

だからこそ僕らの意識そのものも実はその西洋的なフォーマットで考えてしまう。だがもし俯瞰して考えると実は違った世界が見えるかも知れない。

地動説を殆どの人が信じている世界では地動説が「現実」であり天動説は信じ難い暴論に思えただろう。

地球が平らだと信じている人が圧倒的多数な世界では地球が球体(正確には楕円)だなんて誰も信じない。

地動説から天動説への展開をコペルニクス的転回というが、実は我々人間の自意識、自我、自由意志にもコペルニクス的転回が訪れる日が絶対に来ないとは言い切れないのではないか?

実は東洋思想、特に原始仏教とされる釈迦の思想である「無我」「非我」の境地は、我々の自我が実は自我と錯覚してるだけではないかという地点から出発する。

そういう意味で東洋思想というものの考え方は西洋的なものの考え方を脱構築する一つのブレイクスルーになるのではないだろうか。と最近思い始めている。

この詳細はまたどこかで綴ろうと思う。

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