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脳科学に対するスタンス

大学生の頃はニューアカブームの頃だったせいもあって、僕自身も現代思想にどっぷりと漬かっていた。今思えば俗物根性丸出しの黒歴史とも形容したくなるような話だが、当時は本気で自分は重要な事を考えていて、価値あるものだと思っていた。むしろそれを理解しない者へのあからさまな苛立ちを憚る事なく他者に投げつけた事もあった。

だがそんな難しいことを考えている自分に酔っていただけというのが実像だ。恥ずかしいものである。もちろん今は現代思想的なものが価値がないとか重要ではないと考えているわけではない。むしろその重要性は今の方が高まっているとすら思っている。ただそういう人文知的なものに対するスタンスが変わったということだ。

そんな頃に何故か「唯脳論」という養老孟子の著作を読みひどく憤慨した記憶がある。何故「唯脳論」を読もうと思ったのかは今となっては不明なのだが、憤慨した理由はわりと単純で、心のどこかで「理解してしまった」からなんだろうと、今ならわかる。言ってみれば手品の種明かしをされてしまったみたいな感覚だ。

でも理解したからと言って「納得した」訳ではなかった。納得できなかったのは、それまで難解な思想を読み解くために費やした時間が全く無意味になってしまうという危機感からくる反発というか一種の自衛作用みたいなものだったのかもしれない。あるいは難解な思想を読んでいる自分に酔っているだけの恥ずかしい姿を突き付けられた、そんなところだろうか。

難解な思想を理解するために費やした時間やお金など、今となっては大したものではないはずなのだが、自分の恥ずかしい姿を直視する勇気がなかっただけだ。ある種の自分の存在根拠、価値の足元を切り崩されたような気がして、見て見ぬふりをしたのだ。

そういう意味では今は少しは成長したのだろう。30代に入ってむしろ物理学や数学、脳科学、進化論のよう理系的な知をむしろ積極的に吸収するようになっていた。そうなった遠因は恐らく「唯脳論」が僕に残した傷であろう。僕はその事実そのものすら無意識に忘却しようとしていたし、トラウマとはそういうものだと個人的に思っている。言語化してはじめてトラウマはトラウマでなくなるのだ。

それに反比例するように現代思想や精神医学から距離をとるようになった。距離をとるようになったというのは、受け入れないという拒絶ではなく、相対的な距離を保てるようになったというニュアンスだ。

殊に脳科学系の知の破壊力は僕にとってすさまじいものがあった。ある意味すべてを説明しつくしてしまう。だがそこからくるある種のニヒリズムとの葛藤は僕にとって大きかったのだろう。

僕が陥った誤謬は、「異なった地平の物を同じ水準で考えてしまった」ことだ。わかりやすく言えばパソコンのスペックを追求することと、パソコンでどんな素晴らしい仕事が出来るかということは全然違う水準の物という事だ。

パソコンのスペックを記述すること・・・このパソコンはメモリーが何ギガでCPUはどれだけの性能でという事を語ること・・・だがそれが分かったところで、そのパソコンでどんな素敵な小説や脚本や音楽を生み出せるかは何も語ってはくれないという事を想起してほしい。

素晴らしい小説の一文をパソコンのソースコードで説明する事は愚の骨頂であると容易に直感できると思う。

一方で、違った水準のことの「どちらかに一方的に肩入れする」という事は愚かなことだと僕は思う。僕はトランペットという楽器を演奏する仕事をしているが、トランペッターとしてのスペックを高めることとトランペッターとしてどんな素敵な音楽を奏でるかは関連はしているが、全然別の水準の話だ。だから楽器のスペックのヲタクになったからと言って優れた演奏ができるわけではない。

音楽ではそんなこと当たり前なのに人文知/理系知に関してはその区別がついていなかった。さらに付言するなら、演奏家としてのスペックを追求することが無意味であるわけでなく、スペック追及から得られる「知」もアウトプットに重要な示唆を与えてくれるのも事実だ。だからこそどちらも学ぶ必要があると僕は思う。

横道に逸れたが、では脳科学/進化論的な知にどういうスタンスで付き合うのか。それはホモサピエンスという種がどういう限界を持っていて、その限界をどう克服するのか、また同時にその限界を理解することでどう自制するのかという事を知るために学ぶべきだというのが僕の今のスタンスだ。

ホモサピエンスという種が持っている動物性を制御しようとする営みが、我々を取り巻く種々の社会制度や政治思想の本質だ。リベラリズムはまさにその結晶と言っていい。だが所詮ホモサピエンスが考えたものである。その限界がいま顕在化していると思う。

多くの学問が様々な「前提」を設定して構築されているが、「前提」が誤っていれば結論も間違いであるというのが論理学の必然だ。そういう意味でホモサピエンスの本来の姿をどう設定するか。これが今後の人間社会のカギになる。

だがそれが明らかになるころには実は人類は滅亡しているかもしれない。

それでも我々は抗い続ける運命なんだろう。それが我々の脳が持っている性向なのだから。


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