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✨歴史【平安時代】✨

平安時代中期、奥州(現代の東北地方)に勢力をのばして朝廷にまつろわなかった安倍(あべ)一族を討ち滅ぼすべく、河内源氏の棟梁たる源頼義(みなもとの よりよし)が派遣され、親子2代・12年間にわたる戦いを繰り広げました。

奥州にて繰り広げられた死闘の様子。「前九年合戦絵巻」より

これが後世に言う奥州十二年合戦(おうしゅうじゅうにねんがっせん)、現代では「前九年の役(ぜんくねんのえき)」として知られる戦いの中で、安倍氏もまた、安倍頼時(あべの よりとき)・安倍貞任(さだとう)と親子2代にわたって果敢に抵抗しました。

「奥州の蝦夷(えみし。東日本の住民)など、野蛮人に過ぎぬ!」

当時の朝廷は安倍氏らをそう見下し、事もなく平らげられるかと思いきや、戦さは長引き12年。奥州人の意地を見せつけられたのです。

また、彼らは武勇ばかりでなく豊かな教養も備えており、今回は安倍貞任がその才知の一端を示したエピソードを紹介したいと思います。

🌟追いすがる源義家に、安倍貞任が贈った返歌🌟

果敢な抵抗を見せるも武運つたなく、陥落する衣川館(イメージ)

時は康平5年(1062年)、先に討死した父・頼時の遺志を継いで徹底抗戦を続けていた安倍貞任は、一時は朝廷の軍勢を押し返していたものの、次第に劣勢となり、衣川館(ころもがわのたて。現:岩手県奥州市)に籠城したものの、攻勢に耐えきれず逃亡しました。

これを追うのは頼義の嫡男で八幡太郎(はちまんたろう)と異名をとる源義家(よしいえ)。当年24歳、父譲りの武勇を誇る新進気鋭の若武者です。

「こらっ!逃げるな卑怯だぞ!戻ってきて勝負しろ!おい、何とか言え!」
【原文】きたなくも後をば見するものかな。しばし引きかへせ、物いはん
※『古今著聞集』巻第九・武勇より。

しかし老練なる貞任は安っぽい挑発に乗ることなく、駿馬に鞭をくれくれ逃げ続け、距離を稼いでいきました。

このままでは逃げ切られてしまう……焦った義家は、とっさに和歌(下の句)を詠みました。

「ころものたては ほころびにけり!」
【意訳】経糸(たといと)がほころんで、もう衣がボロボロじゃないか≒衣川館は陥落したぞ、ザマぁないな!

必死に貞任を追う義家。歌川芳虎「奥州征討 八幡太郎義家」より

これまた安っぽい挑発ですが、下の句七・七を聞いてしまったら、上の句五・七・五を返せないと恥になります。

「……」

貞任は轡(くつばみ)を緩めて馬を止め、兜の錏(しころ。後頭部から項を防御する部分)がゆれる勢いで、振り向きながら応えました。

「……年を経し 糸のみだれの くるしさに」
【意訳】衣はよく手入れしていたのだが、古くなった経糸(たていと。縦糸≒歳月を経た糸)が乱れて、布地が見苦しくほころんでしまうのは、もはや仕方がないのだ……。

決して油断していた訳ではなく、充分な備えを固めて全力で戦ったが、もはや老い(※)には勝てない。敗れ去ったからと言って、どうか笑わないで欲しい。いつかお前も老いるのだから……かつて奥州狭しと暴れ回り、数々の戦いで武勲を誇った老勇者の寂しさが、この17文字に込められていました。

(※)貞任の生年については諸説ありますが、ここでは若々しい義家との対比として、「年を経し」老勇者と解釈しています。

これを聞いた義家は、その当意即妙なる歌才と老いの寂しさに感じ入ったようで、それまで今にも放たんと番(つが)えていた弓の箭(や。矢)を弦から外して戦闘態勢を解除。駒を止めて、去りゆく貞任の背中を見送ったということです。

✨まとめ✨

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