新説・山月記 袁傪、発狂す
こんにちは、みねるばです。
以前書いた、李徴ではなく袁傪が発狂するバージョンの山月記が出てきましたので、掲載しようと思います。
陳郡の袁傪は温厚篤実、幼き頃からその徳行は郷里に広く知られ、天宝の末年、龍虎榜に名を連ね、次いで監察御史に補せられたが、野心と陰謀渦巻く政治の沼地は、袁傪の性と相容れるものではなかった。
常に他者の顔色を読み、歩を譲り、慈悲の言葉をかけてきた袁傪だが、目の前にあるのは、隙あらば政敵の失脚を願い、かつての仲間すら蹴落とす醜い有様だった。
そして、時に高官の命に応じて、それに加担せざるを得なかったことが、往年の人士、袁傪の心を如何に傷つけたかは、想像に難くない。
信念を曲げ、吞み込んだ言葉は澱となり、袁傪の純真な心は曇っていった。この頃からその容貌も峭刻となり、肉落ち骨秀いで、眼から光が失われた。かつて進士に登第した頃の柔和な美少年の面影は、何処に求めようもない。
官を退く事も一時は考えたが、故郷の期待を裏切り、帝の命に背馳するなど、仁義に厚い袁傪には到底考えられぬことだった。
ある夜半、突然、下吏に起こされ、酒宴の折りに発生した貴族同士の口論の調停を、上司に命じられた。着の身着のままで赴き、身を擦り減らしながら仲裁を試みるも、貴族の一人から唾を吐きかけられた時、遂に発狂。
急に顔色を変え、何か訳の分らぬことを叫びつつそのまま、夜の湖へと駆け出し、二度と戻ってこなかった。付近を捜索しても、何の手掛かりもない。その上、追った者が行方不明になることもあり、捜索は打ち切られた。その後、袁傪がどうなったかを知る者は、誰もなかった。
翌年、隴西の李徴という者、嶺南の地へ宿った。李徴は博学才英、若くして名を虎榜に連ね、次いで江南尉に補せられた後、詩作の道へと進んだ。狷介な性を押し殺し、進んで師に就き、求めて詩友と交り、切磋琢磨に努めた結果、その文名は頂きへと達した。詩聖の名を恣にし、彼の詩集は広く国中で読まれ、長安風流人士の机の上に置かれた。
その後は各地を旅し、詩作の糧を求めた。この地に至ったのも、そのためである。この辺りでは人々の間に、人喰龍が出る故、あの山の夜の湖に近づくな、という噂が流れた。この話に詩人としての李徴が反応した。
そんな異形の類がいるなら、見てみたい。そして、我が詩の一行に加えてやろう、と。
そして、自ら恃むところすこぶる厚い李徴は、一人、件の湖へ訪れた。夜半、残月の光をたよりに湖のほとりを歩いていると、果して一匹の巨龍が水の中から躍り出た。龍は、あわや李徴に襲いかかるかと見えたが、たちまち身を翻して、元の湖へと戻った。
そして、水中へと潜る前の一瞬、人間の声で「あぶないところだった」と呟くのが聞こえた。その声に李徴は聞き覚えがあった。恐懼の中にも、彼は咄嗟に思いあたって、叫んだ。
「その声は、我が友、袁傪子ではないか?」
李徴は袁傪と同年に進士の第に登り、袁傪にとって最も親しい友であった。
湖の中からは、しばらく返事がなかった。しかし、呻くような声がした後、水面からゆっくりと龍の顔が現れ、答えた。
「如何にも私は陳郡の袁傪である」と。
李徴は恐怖を忘れ、懐かしげに久闊を叙した。実に不思議なことだが、その時、李徴はこの超自然の怪異を素直に受け容れて、少しも怪しもうとしなかった。そして、湖の岸辺で、その巨龍と対談した。
都の噂、旧友の消息、李徴の現在の地位、それに対する袁傪の祝辞。青年時代に親しかった者同志の、あの隔てのない語調で、それらが語られた後、李徴は、袁傪がどうして今の身となるに至ったかを尋ねた。袁傪は次のように語った。
今から一年程前、私が調停の命を受けた日の夜のこと、目の前で醜悪な喧騒が続く最中、戸外から透き通るような美しい声が聞こえてきた。誰かが我が名を呼んでいる。声に応じて外へ出て見ると、声は闇の中からしきりに私を招く。
覚えず、私は声を追って走り出した。無我夢中で駆けて行く内に、いつしか道は山林に入り、そして湖へと続く坂道を駆け下りて行った。しかも、知らぬ間に自分は左右の手で地を掴んで走っていた。何か身体中に力が満ち満ちたような感じで、軽々と岩石を砕いて行った。
気が付くと、手や足先に鋭い爪が、腕には鱗が生じているらしい。少し明るくなってから、湖面に姿を映して見ると、既に龍となっていた。
私は初め眼を信じなかった。次に、これは夢に違いないと考えた。夢の中で、これは夢だぞと知っているような夢を、私はそれまでに見たことがあったから。どうしても夢でないと悟らねばならなかった時、私は茫然とした。そうして恐れた。全く、どんな事でも起り得るのだと思うて、深く恐れた。
しかし、何故こんな事になったのだろう。全く何事も我々には分からぬ。理由も分らずに押付けられたものを大人しく受取って、理由も分らずに生きて行くのが、我々生きもののさだめだ。
私はすぐに死を思った。務めを投げ出し、残してきた者に多大な負担を与え、郷里の者達の期待を裏切った。どうして、おめおめと醜態を晒しながら生きていられようか。
しかし、ふと私の名を呼び、どこだと叫ぶ上司の声が聞こえてきた。長らく私を抑圧してきた俗悪な男だった。彼の姿が視界に入った途端に、私の中の人間はたちまち姿を消した。
再び私の中の人間が目を覚ました時、私の口は人の血に塗れ、あたりには髪の毛や衣服の切れ端が散らばっていた。これが龍としての最初の経験であった。それ以来今までにどんな所業を重ねて来たか、それは到底語るに忍びない。
ただ、一日の内の必ず数時間は、人間の心が還って来る。そういう時には、人語を操れれば、複雑な思考にも堪えうるし、他者の思いに心を巡らせることもできる。その人間の心で、龍としての私の残虐な行いの跡を見、自分の運命を振り返る時が、最も恐ろしく、罪深く、しかし、同時に安堵を感じるのだ。
そして、その人間に還る時間が、日を経るに従って次第に短くなっていく。今まではどうして龍などになったかと怪しんでいたのに、先日、気づいてみたら、なぜ私は以前人間であったのかと考えていた。今少し経てば、私の中の人間の心は、獣としての習慣の中にすっかり溶けて消えてしまうことだろう。ちょうど、川の真水が海に流れ込んで消散してしまうように。
そうすれば、終いには私は自分の過去を忘れ果て、一匹の龍として暴れ狂い、今日のように君と出会っても友と認めることなく、君を裂き喰らって何の悔いも感じないだろう。そして、それを不思議と良しとしている自分がいる。
ああ、全く、私の内なる人間を捨て去り、完全な龍になることを、どんなに哀しく、苦しく、切望していることだろう!
この気持ちは誰にも分からない。誰にも分からない。私と同じ身の上になった者でなければ。ところで、そうだ。私がすっかり人間でなくなってしまう前に、一つ頼んで置きたいことがある。君の友、袁傪が本当はどんな人間であったかを、知っておいて欲しいのだ。
李徴は、息を呑んで、龍の語る言葉に聞き入った。声は続けて言う。
私の鈍色の日々の内にも、時折、色を取り戻す時分があった。それは、書物を通じた古の賢者達との対話だ。夜半、蠟燭に火を灯し、古今東西の書を紐解いた。そこで語られる物語だけが我が魂の安らぎだった。私が心から執着したものを、たった一人の本当の友に伝えないでは、死んでも死にきれないのだ。
そして、李徴は、袁傪の言葉を傾聴した。それは、かつて、李徴が誇らしげに自作した詩を詠み、袁傪が耳を傾けたのと、真逆の光景だった。袁傪の声は朗々と響いた。
友である李陵を守るため、皇帝に逆らい、宮刑に処せられながらも、自らの信念を貫き通した司馬遷の悲劇。おぞましき匈奴と戦いながら、砂漠を超え、西域へと至った班超の戦記。国法を破り、仏典を求めて天竺へ、決死の旅に出た玄奘の冒険譚。
それらは血沸き肉躍る英雄達の物語だった。しかし、李徴は感嘆しながらも、聞いている内に、一陣の寒風が心中に差し込んでくるのを感じた。そして、気づいた。そこで語られる英傑達は、己の知る袁傪とは明確な対照を為すことに。
強き自我を持ち、周囲の言葉を斥け、信念に殉じた彼らの在り方は、己が知る袁傪の姿と完全な対極に位置する。そんな英雄達に、焦がれるほどの憧れを抱いた友の心中を察すると、胸が締め付けられた。
一連の逸話を語り終えた袁傪は、突然調子を変え、自らを嘲るが如くに言った。
恥ずかしいことだが、今でも、こんなあさましい身と成り果てた今でも、都で奮闘する自らの理想像を、夢に見ることがあるのだ。上位の者に諫言することを厭わず、部下に惻隠の情を以て接し、飢えた民草に慈悲をかける。帝に信任され、下位の者から頼みにされ、民に仰ぎ見られる。そんな哀れな夢を、と。
時に、残月、光冷ややかに、白露は地に滋く、湖面を撫でる晨風はすでに暁の近きを告げていた。李徴はもはや、事の奇異を忘れ、この仁者の薄幸を憐れんだ。袁傪の声は再び続ける。
何故こんな運命になったか分からないと、先刻は言ったが、しかし、思い当ることもある。人間であった時、私は努めて人との交わりを広げた。人の声に耳を傾け、自らの声を押し殺し、席を争う場でも、他者に譲った。人々はそんな私を有徳の士と称賛した。しかし、それは臆病な仁徳心とでもいうべきものであった。
そして、刻苦して己を磨き、珠たらんとする者に温情を施した。だが、それがほとんど嫉妬心に近いものであることを、人々は知らなかった。自分に出来ぬことをする者を、私は羨み、妬んだ。そして、醜い嫉妬心を否認するため、敢えて親切に振舞った。共に、臆病な仁徳心と、温厚な嫉妬心との所為である。
本当は語るべきことを語り、為すべきことを為し、堂々たる姿を誇りたかった。他者との衝突を砥石とし、己を磨き、珠へと昇華させねばならなかったのだ。
しかし、私はそうした切磋琢磨を恐れ、碌々として瓦に伍することを、消極的に選んでいった。義を見てせざるは勇無きなり、と経書の章句を諳んじながら、実際は義に目を瞑り、他者の視線に怯え、空虚な自我が露呈するのを恐れた。
そして、珠たる者を妬み、怨んだ。強く、強く怨んだ。私が君に最も親愛の情を施したのも、最も激しい嫉妬の念を持ったからに他ならない。研鑽を続け、強固な己を誇る君を羨望し、嫉妬したのだ。嗤ってくれ。私は君の最愛の親友を謳いながらも、実情は最も友誼から遠い存在だったのだ。
そして、私は次第に仁義から離れ、模範から遠ざかり、内なる嫉妬心を飼い太らせる結果になった。人間は誰でも猛獣使いであり、その猛獣に当たるのが、各人の性情だという。私の場合、この温厚な嫉妬心が猛獣だった。龍だったのだ。これが私を損ない、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては私の外形をかくのごとき有様に変えてしまったのだ。
今思えば、私は、私の持っていた僅かばかりの才能を空費してしまったのだ。毅然たる努力によって、己の運命は変え得るのに、臆病と怠惰から諦めた。私より遙かに内気でありながら、刻苦勉励して堂々たる豪傑になった者がいくらでもいるというのに。諦念とその果ての虚無とが私の全てだったのだ。
龍と成り果てた今、私はようやくそれに気づいた。それを思うと、今も胸を焼かれるような悔いを感じる。だが、同時にこの湖のような穏やかな安堵も感じるのだ。私はようやく苦悩から解放された。何者にも脅かされず、私のありのままを曝け出せる。皮肉なことだ。人間を捨てて初めて、私は人間になれた気がする。
悔いと、安堵と、悲哀と、歓喜が心中に渦巻いて堪らなくなった時、私は月に向かって何度も吠えた。だが、山も湖も月も露も、一匹の龍が怒り狂って、猛っているとしか考えない。誰も私を理解しない。誰も。だからこそ、せめて君にだけは、この哀れな男、袁傪の真実の姿を知っておいて欲しいのだ。
ようやく、四辺の暗さが薄らいできた。木の間を伝って、どこからか暁角が哀しげに響き始めた。
もはや、別れを告げねばならぬ。酔わねばならぬ時が、近づいてきた。だが、お別れする前にもう一つ頼みがある。それは我が妻子と、部下達のことだ。彼らは、私の運命について知るはずもない。
どうか、君が帰ったら、私はすでに死んだと彼らに伝えてもらえないだろうか。決して今日のことだけは明かさないで欲しい。厚かましいお願いだが、妻子が飢えることのないように、そして、私の失踪に連座し、処罰された部下や同僚の名誉を回復できるよう、便宜を図って欲しいのだ。
言い終わってから、はっと気づき、袁傪は自らを嘲るように言った。
これだ。こんな有様になってなお、自分は他人の意向を伺おうとするのか。こんなことだから、こんなことだから、私はこのような異形に身を堕とすことになったのだ。今言ったことは、全て忘れてくれ。
そして、決して二度とこの地を通らないで欲しい。是より私は一切の他人に対する顧慮を排する。通りがかる者は悉く殺し、最愛の友であっても喰らってやろう。殺すということは、最も他者の意を拒絶することだからだ。君の友、温和な袁傪は死んだのだ。
また、今別れてから前方にある、あの丘に上ったら、此方を振りかえって見て貰いたい。自分は今の姿をもう一度お目に掛けよう。何者にも束縛されぬ、人間の身では決して成りえなかった姿を。以て我が悲願の成就を示そう。そして、君の詩作に役立てるといい。
そう言って龍は湖中へと沈んだ。李徴は龍に向かって、懇ろに別れの言葉を述べ、涙の中に出発した。そして、丘の上についた時、李徴は、言われた通りに振返って、先程の湖の水面を眺めた。たちまち、一匹の龍が飛び出し、暁の空へ向かって、力の限りに咆哮した。
天地を揺るがす轟音だった。その声を聞けば、誰もが恐怖で地に伏すだろう。たった一人を除いては。ただ李徴だけは、それが誇らしげな凱歌に聞こえ、悲泣の声を漏らした。
龍は天を仰いだまま、何度か咆哮し、尾で水面を叩いた。そして、もう此方を見ることはなく、蒼穹の如き鱗に覆われた身体を翻しながら水中へと消え、再びその姿を見なかった。