やりたいこと100個リスト永遠に未完説
結論として、未完でもえーやん、て話を1000文字でします。
やりたいことリスト100
やりたいことリストを作って、100個、大きいのも、ささやかなのも書いていこう、的なやつをやっている人を見たのが、もう10年くらい前かな。
時々、書き出すのだけど、絶対に100個も出ない。
しまいにはやりたいことリストに「やりたいこと100個出す」と書いてしまいそうで。
いま、手元にあるリストも、数えてみたら42個。
もっと書ける?いや、これ以上はやりたいことをでっちあげる領域になってしまう感じがする。
やりたいことがたくさんあるというのもいいこと
やりたいこと、やってみたいことが、大小織り交ぜてたくさんでてきて、終わるものも、終わらないものも、楽しみながら進めていけるというのは、デカい話になってしまうしすごく善意に解釈してるけど、VUCAの時代を生きるのに適した人のように思う。
世の中変わるから、新しいこと、やったことないことに出くわしても、やってみることができる。
やってみたいことがたくさん出るということは、いろんなことにアンテナ張ってるし、それをアクションとして書き留めることは言語化力でもある。
やりたいことがたくさん出せないのも、ひとつの幸せ
やりたいことを考え始めると、体系的に整理してしまう。それらをまとめて、要するにこれだな、とか、ある程度まとまったり、抽象化度の高い概念を書いてしまったり。そこからブレイクダウンしていくと、どうしてもToDoになって、体系的にムダなくまとまって、数がふくれあがることがない。そんな考え方もある。
これがやりやすいんだからどうしようもないし、問題解決の取り組み方としては正統派だし、不確実性の時代にもマッチする。だからこっち派も有益な特性だ。
たった1つのやりたいこと(目的)のために、すべて(手段)をやっている人生だってあるだろう。
100個に意味があるわけじゃない
手段が目的化してしまうことがある。これはあぶない。
「100個出す」は手段であって、目的ではないはずだ。
やりたいことを考えた時間、過去の自分の引き出しを開けたり、この先のことを考えたり、自分と向き合ったその時間にこそ意味がある。
100個出せる人はすごいと思うけど、必ずしも全員が100個でなくてもいい。
自分には、自分だけの大事な42個があればいい。
だから、とりあえず、5月中に合計5kmのランをしよう。自分のために。