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断捨離で今いる場所を「楽園」にする覚悟と「歓喜」の周波数に戻す「第九」のシンクロ

2023年の3月21日の宇宙元旦(春分の日)は、今後の生き方を左右するくらい大きな節目になりそうだと直感していたので、個人セッションはお休みにして後回しになっていた家の断捨離に集中して、波動を整える期間にしようと決めていた。

幾重にも花びらが重なり縁起が良いことから「合格」の花として贈られるラナンチュラスを直感で選んだ。これもハイヤーセルフからのメッセージ。レモンは置くだけで空間の浄化作用があるという。断捨離時期は絞ってお酒に入れてよく飲んでいた。レモンの色は私の魂の色のひとつ。

いらない書類を破っては捨て、読まない本を売りに行き、もう使わなくなった子どものオモチャを捨てたり、きれいにして寄贈した。キッチン道具や食器も使わないものは処分した。思い出の写真は保存しておくものだけ分類して残りは消去中。年間契約にしていたサービスも、いつでも止められるように月極契約に変更したり、コミットしていたオンラインサロンも退出した。

断捨離をすると「なんでこんな物を今までとっておいたのだろう?」と不思議に思うことがたびたびあった。「まだ使えるから」「いつか使うかもしれない」「もったいない」「捨てるのは可哀想」そんな理由からとっておいたのだと思う。

良かれと思ってとっておいた「過去のもの」たちが、「未来のもの」を受け入れることを無言のうちに拒んでいたことにも気づかされる。無意識レベルでは、過去のものたちを片付けてしまうと、本当にガタガタと音を立てて現実が変わりはじめることを無意識レベルでわかっているから躊躇する。人は本能的には一気に変わるのが怖いのだ。無意識の領域である潜在意識がブレーキを踏んで、思い切った断捨離をすることを避けていたようにも思う。「足りないのは努力じゃなくて本気」というお寺で見かけた立て看板の言葉を思い出した。「本気で変わりたいのか?」「やり遂げる覚悟があるのか?」ということを断捨離で問われていた。

目に見える物質世界の断捨離をしながら、同時進行で目に見えない無意識の領域である潜在意識の断捨離も進んだ。潜在意識にたまっていた(悲しみ、寂しさ、怒り、罪悪感、執着、劣等感、無価値感、ネガティブな習慣や思い癖、古い価値観、インナーチャイルドの傷)といったものをひとつひとつ拾い上げて、当時の自分の記憶に寄り添い、共感して手放す作業を繰り返していった。別れた時の辛さのほうを強く感じていた過去の恋愛体験も、本当は愛されて大切にされていたことにあらためて気づけたり、私の才能や可能性を感じていてくれていたからこその厳しさや苦言だったということも見えてきて、恋愛や仕事で順調に行かなかったと思っていた時こそ、宇宙の流れ的にはすごく順調で、本来魂が望んでいた導かれるべき場所や新たな出逢いへとしっかり繋がっていたのだ。

顕在意識が5%、潜在意識が95%を占めると言われている。目に見えていない意識できていない部分が、足を引っ張り、ブレーキを踏んでいるということはよくあること。断捨離は物質と向き合いながら、自分自身の内面のネガティブな思い癖や悪習慣を手放す作業もしている。向き合いの中で出てきた罪悪感や自己嫌悪も必要ないので、一緒に手放してしまおう。

ゴミ袋にたまったいらない物たちの重みをしっかりと味わって、うんざりしながら、自分の手で収集所まで捨てに行く。部屋の空いたスペースを掃除して軽さを実感することで、潜在意識のネガティブさからも開放され、日に日に浄化されていくのがわかった。自分が心地よく生きるという権利のために、立ち上がる時が来たという感じで、直感で降りてきた曲はボブ・マーリーの「Get up Stand up」だった。思い出や過去の感情に浸り過ぎることもなく、レゲエのリズムに乗って淡々と断捨離を続けた。

余計な物を吐き切ると、新しい物が入る余白ができ、本当に必要な物や縁を受け取れる器になれるというのが宇宙の真理。弱音も本音もジャッジメントを手放し吐き出せる物はすべて吐き切るがいいという、ハイヤーセルフからのメッセージも受け取った。

断捨離の合間に、散歩に出かけていた港の見える公園で沖縄の三線の音色とともに、ハイヤーセルフから「ゆるんで、やすみやすみやりなさい」「目の前の現実がどうであろうと、あなたのいる場所が楽園。今いる場所をあなたが楽園にすればいいんだよ」「心も身体も芯までゆるまないと、豊かさ、美しさを受け取れないよ」というメッセージを受け取った。

その後、息子の誕生日に家族で行った都内の熱帯植物園でも、楽園と思えるような美しい景色を見た。色とりどりの水の生物、麗しい花や生き生きとした緑。高い天井いっぱいに枝葉を広げて木が生い茂っていた。

潜在意識の目に見えない領域は、制限やネガティブなものを取り除けば取り除くほど、明るい太陽の光が差し込み、こんな風に楽園の風景が広がっているのかもしれない。

自分の闇と真正面から向き合ったからこそ見えてくる、自分本来の美しさや光、本当の望み、未知なる可能性がそこにはある。自分の闇を怖がらずにしっかり見てしまえば、案外恐れるほどのことはなく、ただシンプルに「もう、これはいらない」という客観的な判断ができる。「今までありがとう」と言って感謝とともにお別れすることができるだろう。中立のゼロポイントに戻って、今の自分に本当に必要なもの最善なものをフラットな視点で選び直すことができる。

この断捨離期間中に、必要としていた情報がバンバン入ってきて、出逢うべき人にも自然と導かれて繋がっていった。エンジェルナンバーは物質的執着を手放しなさいという「6」や、変化変容を促す「5」、ひとつのサイクルの完了を示す「9」のゾロ目をたびたび目撃していた。

ここ最近は、年末でもないのにベートーベンの第九「歓喜の歌」を聴かされる不思議な流れが来ていて、今年亡くなった龍村仁監督の映画「地球交響曲第九番」の作品も観た。「第九」がテーマだった。「歓喜」がハイヤーセルフから提示されている重要なキーワード。ベートーベン自身も聴覚が失われていく絶望の中、その真逆である神聖なる歓喜を切望し追い続けた人生だったのかもしれない。映画を観た日がベートーベンの命日だったという偶然の一致にも、宇宙からのコーリングを感じた。

「楽園」も「歓喜」も一見すると、どこか自分の遠くにあるもの。日常とはかけ離れた縁遠いもののように思えてくるが、今この瞬間自分の今いる場所を「楽園」にし、「歓喜」の周波数で生きる覚悟することは、本当は誰にでもできる。対極にある「地獄」と「絶望」に振り切ることが簡単なように、「楽園」や「歓喜」に戻ることも実は自然で簡単なことなのだ。

「楽園」と「歓喜」の周波数に戻るということは、エイブラハムの「無上の幸福が宇宙の基本」という言葉ともシンクロしている。「楽園」「歓喜」「無上の幸福」で生きることを自分自身に許可を降ろせばいいというシンプルさ。どんな状況にいても今この瞬間をいい気分で過ごすと決めること。今すでに満たされること。不足の意識でいないこと。「無上の幸福が宇宙の基本」だと思い出すこと。そこからブレてネガティブな周波数に傾いてしまったら、また戻ると意図すればいいだけ。なので年齢も才能も条件も関係ない。全ての人に平等に与えられている権利なのだ。無限の創造力あふれる源のパワフルなソースエネルギーに、再びプラグインするとイメージするのもいいだろう。ベートーベンの「第九」歓喜の歌を聴くたびに、私たちの魂は震え、忘れてしまっていた宇宙の真理を思い出すことができる。

映画「地球交響曲第九番」の中で、第九を指揮する小林研一郎が、一つひとつの音、歌詞、旋律の流れにエクスタシー(恍惚)を感じる表情を見せて、身体全体の動きからその感覚や感情や神聖な目に見えない領域を味わい切っていた姿が印象的だった。人の幸福度は、感じとる感度の良さ、感性の豊かさ深さ、「歓喜」の味わい力に比例するということが腑に落とせた。「無上の幸福」とは「エクスタシー(恍惚)」「歓喜」と言い換えることもできるだろう。今の状況において自分が何にエクスタシーを感じられるかを丁寧に探ることとも言える。私たちは日々を生きる中で、衣食住、仕事、自分を取り巻く環境や人間関係においてのエクスタシーを探る、追求する旅をしているのだと思う。

一人ひとりの感覚や感性が違うので、エクスタシーの好みも一人ひとり違う。近い者同士が集まり共鳴し合い、「エクスタシー」「歓喜」のエネルギーを増幅していく。違う者同士が重なり合うことで生まれるハーモニーの美しさ。お互いの美しさを認めて、違うまま調和していくのが新しい風の時代の在り方。自分の「エクスタシー」「歓喜」を追求するという自分のパートの役割をしっかり果たしていくことが大切になってくる。バリトンの低い声を持つ人が高い声のソプラノに混じって歌っていたら調和を乱してしまう。まずは自分がどのパートを担う人なのかを正しく認識することが大事だろう。つまりどこまでも自分本来の音で自分軸で生きることが使命であり、この世に自分の思い描く「楽園」を創ることにも繋がっている。一人ひとりの「楽園」が違いを保ったままジャッジメントされることなく全て許されて受け入れられて調和していくこと。それが本当の意味での「楽園」なのだろう。それは清濁合わせ持った陰陽、光と闇をも含んでいるからこそ美しい「楽園」なのであって、美しさだけに偏った完璧主義に走る必要もないという、優しさと豊かさと包容力がある世界ということ。

個人セッションの詳細、最新情報は峰子のインスタグラムをご覧ください



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