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人に迷惑をかけない一番のこと
人に迷惑をかけない一番のことって、「機嫌がいいこと」だと思う。
これはけっこう色んな人が言っているようなことだから、目から鱗が落ちるような大発見とかではないんだけど、最近しみじみとそう思う。
「人に迷惑をかけないように」と、常に心がけていたような人が、ある日自分の部屋にこもってしまった。その人はずっと人に迷惑をかけないように気を遣っていた。なので、ワガママそうに見える人に対して、口に出さないけどイライラしてた。我慢に我慢を重ねた上で自分の要望を伝える時の言葉は重たく、怒りを含んだような響きを感じていた。ワガママな人は「ほんまに面倒くさいな」「何なん? ほんまに腹立つ」で済むけど、こういう我慢するタイプは何というか、ちょっと怖い感じがする。
そういう私もこの我慢するタイプだった。ギリギリまで我慢してしまう。もう限界!ってなった時に怒りや悲しみの感情が爆発して、周りを巻き込むほどのことになってしまう。そして自己嫌悪に陥る。何か人生すごく損してる気がする。
何度となく繰り返す自分の負のパターンとして「私を大事にしてない!」「私の大事にしてるものを踏みにじられた! 軽く扱われて悲しい!」って感じることがいろんなパターンで起こり、その度にショックを受け、悲しみ、怒って周りを驚かすことがある。
だけど、ふと、ある時気づいた。私や私の大事にしているものを一番踏みにじっているのは私自身なんだと。
私が「私を大事にしてない!!」と怒り悲しんだ時、実は相手の人は私を喜ばそうとしていたのかもしれない。笑ってもらおうとしていたのかもしれない。本当によかれと思っていたのかもしれない。それなのに私が勝手に「大事にされてない!」と思ってただけで、そういう気持ちを台無しにしたり、自分でぶち壊していたのかもしれない。
最近購入した堀内恭隆さんの新書「シンクロニシティ・マネーの法則」という本を買って読んでいて、よりそのことを明確に感じてきた。
堀内さんは本を購入した人への「読者感謝! 富のキャンペーン」として、交流のある方々に「富とは何か?」についてインタビューした動画を11月30日まで無料公開していて、その動画を見ていると今まで、自分がどんなに自分自身を信用せずに不機嫌で生きていたかがわかる気がした。私が羨ましく感じるような人と私の何が違うんだろうと思った時、私は自分の心が貧しかったんだと思った。「ない」という前提で私は生きていた。
「私は○○を持っていない」
「私は○○ができない」
「私に○○なことがあるはずがない」
「あの人が私のことを好きなはずがない」
「私に○○が務まるはずがない」
平気で自分に対してこういうことを思っていたし、脳内で自分に言っていた。そりゃあ怒るし悲しむわ。何故にそんなに自分をこけ下す。自分を下げまくってる。ふだんから自分に対してそう言ってるから、周りにいる人もそう思ってると感じてしまうのかな。そんな風に勝手に自分を犠牲者にして、貧しい人に成り下がっていた。
本や特別キャンペーン動画を見ながらそんなことを感じていると、堀内さんのFacebookでこんなライブ配信をしていた。
ライブ配信の良いところは、リアルタイムで話していることを質問して参加できること。犠牲者マインドで生きてきた私のことを伝えてみたり、本や動画を見て感じた事をコメントさせてもらった。
犠牲者マインドで生きていると、自分には「ない」という意識で生きてしまい、「これ以上何も奪われたくない!」という気持ちになってしまう。「何もない自分が出せるものはない。私には価値がないから、何か得ないと生きていけない!」という乞食精神になっていた。「もらおう! もらおう!」と意識してるつもりはないけど、自分に信頼のエネルギーがないから、無意識に人から「もらおう」とする。その最たる態度は不機嫌なんじゃないか。それがよく理解できたのがこのblogだった。
性格を形成する子ども時代~20代前半まで、私は家族内で健康的に気持ちを伝え合うというコミュニケーションはなく、父も母も兄も怒ると不機嫌になる人だった。気持ちを伝えることはない。罵倒するようなことだけ言われる。何故怒っているのかわからないから、「これが原因か?」「これがダメだったのか?」と考える。何で怒ってるのかを聞けばいいのかもしれないけど、何だか怖くて聞けない。話し合うコミュニケーションが家族間にないから素直に聞けるあたたかい空気じゃなく冷たい空気なので怖くて不安になる。不機嫌な人のいる環境は、人を不安にさせて恐怖心を与えてしまうんだと思った。そういう環境で生きていたことは変えられない。でも、人より努力しないといけないかもしれないけど、それは自分で変えることができるんだと堀内さんの本や動画やライブ配信を見て信じてみようと思った。
私は不安や恐れが多くて心の地盤がずっとグラグラしてる。心細くて不安で仕方なくなる時もある。どうしたら安心が増えるんだろう? その答えを得たくて、堀内さんの本を読んでいる。
ひとまず「ありがとう」を100万遍言う。私が自然に喜んでできることを増やす。そんなできることから始めてみようと、それこそ私が喜んでできる歌で出演するMAIKO MUSIC JAMBOREEの会場に行く途中、それは起こった。
早く起きて、防寒も、準備もばっちりで家を出た。心で「ありがとう」を唱えながら歩いていると途中で尿意を催してきた。なかなか公衆トイレがない。もうすぐ会場だ。何とかなる。会場に着く途中に公衆トイレを見つけた。やっぱりトイレに行こう、そう思ったら気持ちと膀胱が緩んできた。ヤバい。早くトイレへ!!とバリアフリートイレへ駆け込むと電気がつかない。ダメだ! 個室トイレへ! ギターとキャリーバックをドアの外に置いて、ドアを閉めようとするとドアが歪んでいるのか閉まらない。何でよ!と焦っている時、私は何と尿失禁した。
「えーっ!!!!!」
おしっこをもらしたのは40年ぶりくらいだろうか。老化なのだろうか。軽い尿漏れではなく、かなり派手に漏らした。子どもみたいに漏らした。軽く絶望した。「私、これから野外ステージで歌うんやけど…」と一瞬暗くなったが、めげずに心で「ありがとう」と唱えてみた。
すると見えてきた。レギンスとパンツと靴下はびしょ濡れだが、幸い靴とワンピースは濡れていない。これなら何とかなる。ノーパンでも歌をうたうことはできる。今からどこかでレギンスや靴下を買う時間はないから、とにかくレギンスとパンツと靴下を脱ぎ、幸い持っていたビニール生地のエコバックに(エコバックもこんな使い方されたくはないだろうが)それらを入れてキャリーに詰めて、心の中で「ありがとう」と唱えながら会場へ向かった。
幸い天気がよくて寒くない。
幸い私以外の誰も私がノーパンだとは気づいてない。
幸い風が強くないので不安にはならない。
そしてノーパンのままステージを気持ちよく終えた。何なら朝の8時30分から15:00までノーパンで過ごした。おしっこを漏らしても、ノーパンでも大丈夫だった。出番前におしっこを漏らすような人間でも大丈夫。こんな私でも大丈夫なんだ!! これで安心しないで、どうする!! ライブ前におしっこを漏らすという失態をやらかす自分のどうしようもなさが面白くなってしまい、いつも以上にリラックスできた。だからといって、もうおしっこは漏らしたくないけど。
おしっこを漏らしても、ノーパンでも、気持ちよく歌えた。イベントのトップバッターだからお客さんは少ないけれど、天気は良いし太陽の光があたたかくて海がキラキラしていて気持ちよかった。私目当てのお客さんはいないから写真はないけど、その場の空間を包むように愛をこめてうたえた。
見方を変えればいくらでも失望できる。でも、「ない」意識から「ある」意識に自分で変えていくだけで受け取ることが変わっていく。おしっこを漏らすことは迷惑ではなく、おしっこを漏らして「不機嫌になる」ことが迷惑になるのだ。
今まで、私の認識が歪んでいた為に、我慢して、不機嫌になって、癇癪を起して、不安になって、喜べずにいたことで、たくさんの人を悲しませてしまったと思う。そして、一番そのことを悲しんでいたのは私自身だった。
おしっこを漏らしても機嫌よくいられることを知ってしまった以上、どうにでもなれる気がするよ。
そう書いた後、何か最後の一文がスピッツの「チェリー」の歌詞みたい(♪愛してるの響きだけで強くなれる気がしたよ)で笑ってる。そんな風にくだらないことで笑える身軽さでいたい。
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