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Angelus(アンジェラス) ー3ー
流れるような木目が印象的なウォールナットの玄関ドアを開けると、三人の母親たちが玄関ホールに置かれたランタンの椅子にかけていた。息を切らしている美和子に、ドイツ人の夫の姓で「ホフマンさん」と呼ばれている、つややかな黒髪の母親が言った。
「大丈夫。先ほど少し遅くなると、お母さん先生がおっしゃっていました」
自宅から山へ上がる道で、事故渋滞に巻き込まれ、美和子は開始時間ギリギリに到着した。ほかの母親たちは、帰宅せず近くのカフェで時間をつぶし、余裕をもって来てしていた。美和子はホフマンさんの向かいに座って深呼吸した。家の奥からは、ときおり子どもたちの笑い声が聞こえる。玄関わきの窓から涼しい風が吹き込み、汗を拭く美和子の火照った顔を撫でた。どこからか短い口笛のようなさえずりが聞こえる。
「ルリビタキかしら?」
ホフマンさんが耳をすまして言った。
ここは毎週、火曜日に琴子が通う子どものための料理教室だ。子どもたちがダイニングで試食している間に、「お母さん先生」と呼ばれるこの家の主人は、玄関ホールで母親たちに料理の内容と子どもたちの様子を説明する。
「いただきます!」
子どもたちの元気な声が聞こえると、お母さん先生が出てきた。
「お待たせして申し明けありません。それでは始めさせていただきます。今日はベトナム風生春巻きを作りました」
エプロンのポケットからメモを取り出し、今日のレシピと、ぎっしり書き込まれた子どもたちの様子について説明を始めた。
「アンドリューくんと琴子ちゃんの二人が野菜をカットする担当に手をあげたましたが、アンドリューくんが琴子ちゃんにその役を譲ってくれました」
アンドリューくんは主張が強く、やりたいと思ったらジャンケンで負けても「僕がやる」と駄々をこねる。いつもは何があっても決してあきらめない。それが今日は「先週は僕がやったから」と、初めて折れたのだ。母親のホフマンさんは目を見開き、手のひらで口元を押さえた。ほかの母親たちは顔を見合わせて、ホフマンさんに笑顔を向けた。
美和子は子どもの料理教室なんて「おままごと」だと思っていた。そこに入るのに卒業生の保護者からの紹介が必要で、親子の面接まで受けなければならないと聞いたときは、厳しく生徒を選ぶことに戸惑った。
運よく入会を許された琴子が、最初のお稽古で作ったのはワカサギのマリネだった。初めての子どもたちに高温の油でフリットさせることに驚いた。また別の日に、琴子は帰りの車の中で「りんごを四等分して……」と作り方を説明し始めた。
「四等分て?」
美和子は思わずたずねた。
「全部大きさが一緒になるように切るの。最初に真ん中で半分こにして、それをまた真ん中で半分こにすると、四等分できるの」
「お料理」を通じて分数を理解するきっかけになっているのだと気づいて、美和子は感心した。子どもたちは、本物の包丁や火を使う。ふだん幼稚園にいるときより集中して先生の話を聞いていて理解も早い。
そんな子どもたちの成長ぶりを、お母さん先生は母親たちにていねいに伝える。子どもたちの成長には差があるが、決して「できる子」「できない子」と表現することはない。子ども自身ができるようになりたいと一生懸命になれば、大人がうるさく指導しなくても、できるようになるものだと信じて見守っている。
団子結びしかできなかった琴子が、ここに通うようになってすぐにエプロンの紐をうしろ手で蝶々結びするようになった。そうして、ひとつずつ新しい所作を身につけ、さまざまなことを学んでくる我が子に、美和子は驚きと畏敬の眼差しを向けた。
「以上です。それでは、子どもたちを呼んできますね」
説明を終えたお母さん先生が奥に入って行くと、子どもたちが「ごちそうさまでした」と合唱する声が聞こえた。しばらくして、助手の先生が四つの容器を運んできた。その日に作ったものを家に持ち帰るのだ。それぞれの名前が書かれた容器には、子どもたちが自分で包んだ生春巻きが二本入っていた。美和子の夫は、このささやかなご馳走を毎週楽しみにしている。
子どもたちが、廊下の奥から駆け出してきた。琴子は美和子を見上げて、「今日も頑張ったよ」と言わんばかりに誇らしげな顔をしている。それぞれの親子は、順番に先生に挨拶をして玄関を出た。
「ベトナムっていう国のお料理なんだよ。リューくんは行ったことあるんだって」
琴子は、興奮気味に話し始めた。アンドリューくんの名前を聞いて、琴子はしばらく「アンドウ リュウくん」だと勘違いしていた。違うとわかったいまでも「リューくん」と呼んでいる。
前を歩いていたアンドリューくんが、振り返って声をかけた。
「このあと時間ある?」
まるで大人のような誘い文句を聞いて、琴子は美和子の顔を見た。最近は、お稽古のあと、近くの景色のいい公園で遊ぶのを楽しみにしている。
「少しならいいわよ」
美和子が答えると、琴子はアンドリューくんと公園に向かって走り出した。二人のうしろ姿を見ながらホフマンさんが言った。
「今日は祝杯をあげたい気分です」
美和子は以前から、ホフマンさんが「僕が! 僕が!」と絶対に人に譲らないアンドリューくんのわがままを気にかけていたのを思い出した。
「子どもたちの成長に驚かされますよね。ありがたいです」
美和子が言った。
この教室は、凛ちゃんママの紹介で入った。凛ちゃんのお兄ちゃんが通っていたのだ。凛ちゃんのお兄ちゃんとアンドリューくんのお姉ちゃんも、この教室で一緒だった。もともと凛ちゃんママとホフマンさんは小学校から高校まで同じ女子校の同級生だ。別の幼稚園に通う凛ちゃんとアンドリューくんもとても仲がいい。生徒の稽古日は同じ幼稚園の子どもが重ならないように振り分けられ、凛ちゃんは琴子と違う曜日に通っている。
「このまま穏やかに卒園まで過ごせたらいいのに」
ため息をつきながらホフマンさんが言った。
「やはり受験は大変ですか?」
美和子が聞くと、ホフマンさんがゆっくりうなずいた。
美和子は琴子を、アンドリューくんのお姉ちゃんが通うカトリックの女子校に行かせたかった。そこは、凛ちゃんママやホフマンさんの母校でもある。つい二年前に娘を合格させたホフマンさんの話を、美和子はとても参考にしていた。
滑り台の上から「ママ」と呼ぶ琴子に気づいて、美和子は手を振った。
「比較と競争の渦に巻き込まれて、闇落ちしないように頑張りましょうね」
ホフマンさんが言った。
「闇落ち」
以前、凛ちゃんママの口からも聞いた覚えがある。そのときには、なんだかオカルトっぽい言い回しにリアリティーを感じられなかった。でも、先日の「郵便屋さん事件」で、美和子は初めてお受験の生々しい「闇」を感じた。凛ちゃんママは「どんなに仲のいいママ友でも、闇落ちしたら助けられない」と言っていた。
さっきまで追いかけっこをしていた琴子とアンドリューくんが、並んでブランコの上に立ち、高くこぎ始めた。
美和子は一瞬、眼下に広がる街の景色に、子どもたちが羽根を広げて飛び去ってしまうような幻想を見た。
ブランコを降りて戻ってきた琴子を急いで抱きしめると、その背中に空を飛び翔る翼などないことを確かめた。