Angelus(アンジェラス) ー6ー
黄色の虫かごを肩から斜めにぶら下げて、小さなハンターが草原を進む。麦わら帽子が右に左に大きく揺れた。夏の日差しに白いワンピースがハレーションを起こしてぼやけて見える。うしろを歩く美和子は目を細めた。突然、琴子は何かを見つけて立ち止まった。山の上の沸き立つ雲に向かって、ゆっくりと虫取り網を振りかざすと、そのまま動かなくなった。
「えい!」
なぎなたを振りおろすように、虫取り網を地面にたたきつけた。
「パパ! とれた!」
琴子が、振り返り叫んだ。夫が駆け寄り網の中を見た。
「すごいぞ! コッちゃん!」
逃さないように網の口をすぼめると、琴子はその中に小さな手を入れた。羽ばたきする白い蝶を痛めないように優しく片手で包み込み、そっと虫かごにうつした。
琴子は生まれて初めて虫取りに成功した。
「コッちゃんは筋がいい! さすがパパの子だ」
受験塾で「体験を伴う知識が大切」と言われて美和子が相談すると、夫は休みをとって修善寺に連れてきてくれたのだ。もともと旅好きな夫は、琴子のお受験のために今年の夏休みは旅行を諦めていたが、美和子の話を聞いて張り切り出した。月末には、海にも行く計画だ。
琴子はホテルまで大切そうに、虫かごを両手で抱えて帰った。食事のあと、中庭で花火のイベントがはじまった。ひとしきり遊ぶと、琴子はプールサイドの椅子に座ったまま寝入ってしまった。
「朝から川遊びもしたし、さすがに疲れたのね」
琴子の頭を撫でながら、美和子が言った。
「君もリフレッシュできたかな? 最近大変そうだったから心配してた」
夫の思いを初めて知った。
祥子ちゃんの一件があってから、美和子の不安が消えることはなかった。何度か夜中に思い出して、朝まで眠れないこともあった。夏休みに入る直前に、しばらくは顔を合わせる機会が少なくなると思ったら、ようやく少しだけ肩の力が抜けた。
夏休みに入ると、週3日の塾と体操教室とお母さん先生のお料理教室で、平日は予定が埋まった。土日には、受験と同じタイムスケジュールで行われる模試や、面接の練習が入ることもある。自然と余計なことを考える暇はなくなった。琴子はというと「今日はどこに行くの?」と毎朝、目を輝かせて聞いてくる。
塾からは毎日、十枚ほどの宿題が出される。美和子は琴子につきっきりで問題を読み上げた。バテ気味なのは美和子の方だった。
ふだん美和子に何もかも任せきりの夫が、こうして旅行を企画し、率先して琴子と遊んでいる。協力してくれる夫の姿を見られただけで十分うれしかった。二人は、琴子を起こさないようにそっと抱き上げ、部屋に戻った。
ホテルを発つ朝、琴子は早起きして草原に行き、虫かごから蝶を放った。
「さようなら、元気でね」
ジグザグを描きながら、ひらひらと林の中に消えていくモンシロチョウをじっと見ていた。琴子は振り返って美和子にいった。
「翔子ちゃんちで、蝶々の標本を見せてもらったことがあるの」
美和子は琴子の口から出た名前に体をこわばらせた。たしかに年中のころまでは、おたがいの家に行き来してよく遊んでいた。
「翔子ちゃんは生きてる蝶々を触ったことがないんだって。こんど、どんなふうだったか教えてあげよう」
「そんなことしなくていい」と、言いかけてやめた。琴子にとって翔子ちゃんは、いまも変わらず幼稚園のお友だちなのだ。となりで聞いていた夫が美和子の曇った顔を見て小声で言った。
「いつまでも気にしすぎなんじゃないか? 子どものしたことなんだし」
美和子もこれまで、同じことを何度も考えた。
あのあと幼稚園では、翔子ちゃんのようなチック症の子どもを何人も目にするようになった。症状が重くなって園に来れなくなる子どももいた。凛ちゃんママから、塾によっては「チック症を克服してこそ受験の準備ができたといえる」といって、厳しく指導するところもあると聞いたとき、美和子は言葉を失った。
凛ちゃんママのいうとおり「恐怖心こそが闇」なのだとすると、受験のストレスとチック症に苦しむ翔子ちゃんを化け物だと怖がっている自分の方が、闇に飲まれていることになる。受け入れたくない思いが、美和子のこころに繰り返しよぎっていた。
琴子は塾でも変わらずマイペースだった。間違っても失敗しても少しも気にしない。まるで初めて見る紙芝居のように、先生の書いた正解を楽しんでいた。
受験に不安を抱いているのは、むしろ美和子の方だ。ほかの子どもや母親がとても優秀に見えて、琴子が何かをやらかすたびに「うちは大丈夫だろうか?」と心配になった。琴子はといえば、よくできる子を見ると「すごいね」と美和子に笑いかける。ほかの子が喜んでいるだけで琴子も嬉しくなった。
一度、お母さん先生に、このままでいいのか相談したことがある。
「琴子ちゃんは、次は自分ができるようになると知ってるのでしょう。だから羨んだり、妬んだりしないのかもしれません」
受験のことを考えると、決まって美和子は不安でいっぱいになるのに、目の前の我が子は、いつも無邪気だ。凛ちゃんママの言う「闇」に飲まれないように、ほかの子と比べて一喜一憂したり、競わせたりせず、まっすぐ琴子の成長だけに目を向けていこうと思い始めていた。
「早く! 朝ごはん食べに行こう」
琴子が美和子の手をとり、ずんずんとホテルのレストランに向かって歩き始めた。来るときには、うっすらと夏霧のベールをまとっていた草原が、朝陽に照らされ、風に揺れながらグラデーションを描いていた。その向こうには、なだらかな稜線がくっきり見える。
美和子は琴子に目を向けた。その顔は、日に焼けてとてもたくましく見えた。