柔らかい歯、流れる棘
残業はほとんど無い部署だが、働くのが不向きなのか帰宅してから作文する気力が湧かず、なんだかんだで二ヶ月も更新していなかった。ストーカー事件も落ち着き比較的穏やかな日々を過ごしていた。あったことと言えば、紙巻き煙草からiQOSに変えたくらいか。理由は臭いから。iQOSの煙草(とりあえずマルボロを吸っている)はタール数を明らかにしていないが、5ミリを吸っていたわたしからするとかなり吸いごたえが強く感じられる。逆に、10ミリの煙草を吸っていた人は吸った気がしないと言っていたので、8ミリくらいか。衣服や体に付着する臭いは格段に減ったが、本体が臭くてたまらない。昨日キャップ部分をエタノールに浸したところ悪臭は消えたが、一本吸ったらすぐ元通りに臭くなってしまい膝から崩れ落ちた。
目下十連休中だ。連休直前まで何の予定も無かったが、なんだかんだ今日以外友人と会っていた。数日前に平成が終わり令和に改元された。わたしはフェミニズムの観点から天皇制に賛成していないが、世間はみな心を一つに祝っていて、テレビには涙を流している一般人の様子なんぞも流れていて、よくやるなと思った。次の元号になる頃には、今より更に人権意識は高まる(はず…)のだろうが、そうなったとき、家父長制の権化たる天皇制が存続し得るのだろうか。平均余命で考えればわたしはまだ生きているはずなので、市民革命をこの目で見届けることになるかも知れない。
少しずつだが周りの知り合いで結婚する人たちが増えている。そうでない人たちも、現在の恋人と結婚を視野に入れているようである。多くは無いが、子供を出産した知り合いも居る。比較するようなことでは決して無いが、一方でわたしは二年ほど恋人もおらず、よくわからない男とたまにセックスをして、ベッドの上で怠惰を貪っている。中学生くらいまでは間違いなく自分のことを女だと思っていたが、今は生物学上そうだが性自認が明らかで無い。自分のことを女だとも男だとも思えない。数年前にファッションブランドのメゾンマルジェラがコレクションテーマに掲げたことでセクシャルフルイディティという概念を知ったが、それでほとんど説明がつく。LGBTがようやく世間に浸透して来た昨今、セクシャルフルイディティという概念はまだ無名だろうが、グーグルで検索をかければすぐに日本語で解説したページにアクセス出来るので、海外では自称する人も少なくないのだろう。先日YouTuber(なのか?)として女子高生を中心に有名なkemioが出版した本を読み、その中で彼は「ちな、今ウチはゲイ」と発言していた。この言葉が一部の人々の「気分」、マインド、バイブスになんと心地よくフィットしたことだろう。kemioの性自認は男性であるから先のセクシャルフルイディティと厳密には異なるが、彼の場合、その性自認も流動的に変化していくよ、という意味を含んでいるように思う。彼は化粧をする動画やパックのレビュー動画、レディースの服を着る動画なんかを度々載せているが、彼の中の「男性」が化粧をしているように見えたり、彼の中の「女性」がパックをしているように見えたり、賢い彼の無自覚な部分でそういった多面性を感じる。全くそうでは無かったらすみません。100パー男!男を楽しんでる!というようなことを書いていたし、失礼でしたら申し訳ございません。彼の登場とそれを快く歓迎するギャル(性別不問)たちの姿を見、いつかその日の服を選ぶような手軽さで、「気分で」、性自認、性的指向、その他あらゆるセクシャリティを選択するのが当たり前になっていくのか知らん、と少し未来に明るさを感じた。それが実現される頃、もし生きていたとしてもわたしはだいぶ後期高齢者だろうが、脳味噌のアップデートを常に怠らず、人権を拡大する新しい思想を「アゲじゃん」と思えるような人間でありたい。
…話が逸れた。婚姻の契約を結ぶことで税金が安くなるとか遺産を相続出来るとか法的に様々なメリットがあるのは分かるのだが、やはり自分が性的少数者であることに変わりは無く、結婚を考えたことが一度も無い。ふざけたことを言えば、ハネムーンはしてみたい。ヨーロッパを周遊し、食とセックスと芸術鑑賞に明け暮れ、セーヌ川沿いで配偶者と腰に手を回し記念写真を撮る。そして成田空港に着き、その足で役所へ向かい離婚届を提出、「結婚楽しかったね!じゃ、バイバイ!」と言って手を振り別々の家に帰る。想像するだけで楽しい。内田裕也が亡くなった際、彼と樹木希林の別居生活(だけじゃないけど)が「変わった夫婦生活」として久しぶりに数々のワイドショーで取り沙汰されていたが、個人的にこの、結婚=同居というのも結婚の敷居を上げる一因である。これは結婚観というより恋愛観だけど。会いたいなあ、別れが惜しいなあ、という気持ちこそが人を好きでいるモチベーションに繋がるので。って夫婦は家族だから恋人と混同してはいけないのか。分からない。というかそもそも恋をしていない。今のこの孤独も美しきかなと思うが、久しぶりに恋がしたい。似たようなことを書いた気がする。人を好きになりたい。わたしはセクシャリティに関すること以外も流動性や多面性を持った人間なので、もちろん誰しもそうだけどやや顕著というか、たとえば一番好きな映画はイングマールベルイマンの作品だけど、こうしてkemioの動画見て笑ったりするし、今度ローザスのダンス公演を観に行くけどカラオケではTWICE歌いながら踊ったりするし、手に負えないくらいこの世には素晴らしいものがたくさんあって、そのどれにも興味があるからどこにも属せない。要するに浅く広くってことなのかも知れない。気持ちは深いぜって思っているけど。だから、例えばベルイマンを通して仲良くなったとしてもkemio好きなのが知られて「意外だね…」と引かれたり(kemioごめん)、カラオケのテンションで仲良くなった人にローザスの動画見せて「え、よくわからない…」と引かれたりする。みんな自分の脳味噌や好き嫌いを乗り越えて来てよと思う。もちろん、殊に現代アートなんかはその背景を学び知ることでより鑑賞に深みが出るのは否定出来ないけれど、もっと、自分の常識や価値観を破壊するもの、理解不能、つまり理解を凌駕するもの、不快で不安を覚えるものになんでみんな興味を持たないの?べつに強要するつもりは無いけど。単純な疑問。海外旅行するのは数十万かかるけど、文庫本たった一冊数百円で種類は違えど同じくらいの質と量の経験が出来るのに。こんなこと言っている人何十年前から居るんだろう。とほほだな。
他にも多面性についていくつか書きたかったけど飽きたし疲れたので今度。というかまた結婚の話から逸れてる。要するに趣味を通して仲良くなってもいろいろ具合が悪いことがあって難しい、いつまでもはみ出し者でしようがねえ、という話。端折るとだいぶニュアンス変わってしまうが。興味深い人が現れますように。