変がいい

「変”で”いい」ではなく、「変”が”いい」。


大学の卒業作品展を観に行った。
映画、ドキュメンタリー、ゲーム、メディアアート、デジタルアーカイブ(デジタル機材を用いた歴史遺産保存)、バーチャルリアリティ(VR)…
数多ある作品の中で特に心を掴んだのは、震災によって起こった問題を60年代のアングラカルチャーと般若心経で軽快に落とし込んだ一本の映画だった。


一言で言えば変な映画だった。
震災で起きた自然災害を白亜紀の紙粘土恐竜たちに喋らせ、食糧難を近所の公園の滑り台の上で焼きそばパンをかじるために奪い合いをするおじさんと若者に語らせ、国会議事堂の前でデモを繰り広げる若者たちのテキトーさ加減を延々とした漫才に乗せ、被災地へ向かう電車でのボランティアゴリ押しおじさんとのやりとりを恐らく近所の空き地に2脚のイスを並べただけの簡易セットで再現し、ラストには監督自身がパンツ一丁でオリジナルの般若心経に合わせてギリヤーク尼崎風の舞を踊るのだから。
(ちなみにこの作品のコンセプトは「バカもインテリも右翼も左翼もナウでポップなコミュニケーションをしようぜ☆でも喧嘩はやだよ。」=「時を経て知識人やマスメディアだけのものになりつつある『震災』を元は一般人のものであるとして『震災』を軽く描くことで我々の手元に取り戻す」だそうです。)


最近までメインカルチャーに馴染めなかった(今もまだ抵抗は消えないが)私は、サブカルチャーに大いに心を救われている。
作品展で上映された映画はどれも上質だったが、正統派がゆえに私の肌には合わない部分もあった。
そんな中でのこの映画との出会いは、今までの(勝手ながらも感じてしまう)しがらみを解きほぐすほどの力があった。


変でいい、いや、変がいい、のかもしれない。


そう思えたのは、一本の変な映画が一人の生きづらさを感じる熱狂的サブカルラバーにとてつもない解放感を与えたからである。


また、監督が直接言ってくださった言葉がある。
「他の人がやってもできることを、自分はやる必要がない。自分にしかできないことを、できる範囲でやること。これが自分のスタイルを確立する方法です。」


今後私は、大学や仕事で多くの映像作品を作る予定である。
高校時代の大会では引け目を感じることも多々あった自分の風変わりな作風(ちなみに脈絡のないギャグと社会派問題のミックスドラマが好きです。)だが、大学では存分にさらけ出して行こうと思う。


自分のためにも、まだ見ぬ誰かのためにも。

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