スピリチュアルな世界を信じるわけではないけれど...
ある日、朝起きたら、夫が亡くなっていた。
前の晩はいつも通りに家族で夕食を共にして、夫婦でふきのとう味噌をあてに日本酒を晩酌した。不思議なウイルスのおかげでもうだいぶ長い期間、朝昼晩と家族四人揃って毎食団欒を楽しんでいた。今までにないほどの濃密な家族の時間。不透明なウイルスの動向でそんなあたたかな日々が永遠に続くと思われたのに、突然終わった。
40代半ば、心不全だった。
私はいつも子供たちと先に寝て、夫はその後一人タイムを楽しむのが日課になっていた。テレビをみたり、本を読んだり。私がグレーのタータンチェックのパジャマを着たその夜も、彼は私たちにお布団をかけてくれて、一人一人におやすみのキスをして、リビングに戻った。お気に入りのスカイブルーの揺り椅子に座って、ウィスキーをロックでちびちびとなめながらテレビを見るのがお気に入りだった。
「ブホッ」
夫はリビングに戻り揺り椅子に座った途端、大きな大きなおならをしたようで、すごい音がした。私と子供たちは大笑いをして、「もうパパ本当にいやだぁ!」と言い、彼は明るく「おやすみー」と答えた。リビングにいる彼の気配と安心感に包まれながら眠りについた。
それなのに。
起きたら彼はもうこの世の人ではなくなっていた。
彼が亡くなったあの日から、私と子供たちは様々な奇跡を目の当たりにして来た。正確に言うと、奇跡に生かされて来たように思う。
そんな奇跡の数々を少しずつ、綴っていきたい。人間だから、いつか忘れてしまうかもしれないから。生々しいうちに、自分の記憶を整理するためにも書いておこうと思う。
そして、なるべく包み隠さず書きたいと思う。人間あまりに大きな悲しみを目の前にすると脳も身体も処理しきれずに様々な症状が現れる。自分の醜さや不甲斐なさに打ちのめされ、自分が嫌いで許せないと思うこともある。他の人の何気ない発言にとめどのない怒りを覚え、恨むこともある。私は夫の死の直後それらの感情に蝕まれそうになり、そのまま生きていく意味が分からなくなったこともあった。そういったときに、同じような体験をした方々の本や文章を読むことで、少し高い視座から物事を俯瞰し、様々なネガティブな感情は「人間が破壊的なショックを受けた時の反応」として捉え、ドロドロとした暗闇に徹底的に向き合うけれど、自分を完全に同化させず、飲み込まれずに済んだように思う。
今振り返ってみると、許せないと思った他人の言動も、全てはあまりにも深い悲しみにいた自分のその時の受け止め方だったのだと思う。もしもその方々がこのnoteを読んでしまったら申し訳ないが、今は感謝しかないことをどうか知っていて欲しい。
本当に多くの人からの言葉にできないほどの愛のおかげで、今ここで生きている。彼の死後、愛する人を無くしたことのある友人の多くは手紙をくれた。そして、みんなこのようなことを書いてくれた。
「スピリチュアルな世界を信じるわけではないけれど...」
「霊魂を信じるわけではないけれど...」
そう前置きした上で、みんな様々な奇跡の体験を教えてくれる。それは故人からのギフトのような体験ばかり。
愛する人を亡くした人は、みんな何らかの不思議な体験をする。
私はその体験によって悲しみの核が癒された。絶望的な暗闇の中でも少しずつ光が射してきた。
スピリチュアルや霊魂は怪しいものとして信じてはいけないと言う固定観念を刷り込まれてきた私にとって、目に見えない世界は全くよくわからなかったし、「偶然」として様々なことを一蹴して生きて来た。でも、圧倒的な奇跡を目の当たりにすると、人間は考え方、世界観、価値観、生き方が全く違うものになる。そして、奇跡は慈悲深い救いへと昇華していく。
大切な友人がアインシュタインが言ったとされるこのような言葉をシェアしてくれた。
"There are only two ways to live your life. One is as though nothing is a miracle. The other is as though everything is a miracle."
「人生には、二つの生き方しかない。
一つは、奇跡など全く存在しないかのように生きること。
もう一つは、全てが奇跡であるかのように生きること。」
愛する人を亡くして絶望の淵を彷徨う人が、このnoteをみてご自身にも起こるであろう奇跡のきっかけを掴めたら...そして何よりも自分が死を受け入れ、生きていく為に、書いてみたい。
これを読んでくださる方が、あちら側からたくさんの愛を受け取り、精一杯この世で生きられますように。