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普通でいい

先日、大学で1コマ90分を頂き、実施しているプロジェクトの説明会を行いました。
通常は5~10分程度で簡単な説明を行うだけなので、90分を頂けるというのは、かなり貴重でした。

この機会をどのように活用させて頂くかを考え、冒頭は通常の説明を行い、後半はグループワークでよりじっくりと話せる場を設けることにしました。

プロジェクトに関わるメンバーも合わせて5名で入り、グループワークではそれぞれ話してみたい人のところに行く×2ラウンドを行いました。

自分は全体進行の立ち位置でなおかつ暑苦しい話しを展開していたので、じっくり話したい人なんていないだろうと思っていたら、物好きな3人組が2ラウンド目にやってきました(つまり1ラウンド目は0人)。

分かりづらいですがカイト飛んでます(本文とはさほど関係ありませんが)

忘れ得ぬ10分

時間にして10分ほどですが、いろいろな意味でとても印象的でいまも心の底に言いようのない感情と共に残っています。

あえて自分のところにやってきたのだからなにかあるのだろうと思っていましたが、そのうちのお一人からの「バイトの面接に落ちまくってなんでだー!」というお話しから始まりました。

うん、なんでだろうね……(たたく戸を間違っている

服装がやばかったのかとか、いや履歴書かとかそんなお話しをしているうちに、実はやりたいことあるんですよねーというお話しになりました。

しかし間もなく、家庭事情もあり大学を4年で卒業しなくてはならないこと、普通に進級して、普通に卒業して、普通に就職する、目立たず普通が一番、とひとしきり語られたあとは、さっと口を閉じてしまいました。

その様子が、本当にそう思っているのではなく、ひたすら自分に言い聞かせているように見えたので、その奥底の想いをお聴きしたいと思いましたが残り時間はあと3分。もう一度口を開くまでの間合いを取るのには十分とは言えず、他の二人もやりたいことなどあるのかお聴きしました。

印象的だったのは、普通が一番と言っていた最初の大学生が、他の二人のお話しにちゃちゃをいちいち入れていることでした。その二人は、ちゃちゃが入る度に表情が固くなったりうつむいたり、愛あるツッコミというよりも、酔った勢いで言ってしまうやっかみに近く感じられました。

もっと向き合いたい、お話しをお聴きしたい、いまここでどんな言葉があるとその機会を得られるのか悩み、結局は当たり障りのないことしか言えませんでした。

恐らく、残念ながら、二度と出会えることはないでしょう。

真意は霧のなか

普通が一番

どんなことを積み重ねてきて「普通が一番」と言わしめているのだろう?

自分はかつて、「普通」という言葉に随分と苦しめられました。
マイノリティな趣味趣向の両親のせいでやることなすこといちいち他とは違っていたこともあり、「普通は~」という前置きで、自分の行動をおかしなものとして言われてきました。それに理不尽さを感じながらも何も言えずにいた暗黒の中高生時代です。

他方、祖父は遺言で「平凡な人間になりなされ」というようなことを書き残してくれました。
当時はその意味を図りかねていましたが、シベリヤ抑留を経て激動の時代を生き抜いたからこそ言える、ただ平凡に生きてくれればそれでいい、という意味の深さを、若い世代と接する機会が増えるごとに感じ入っています。

先日食べたロシア料理のボルシチ。抑留時代は食べることもできなかったのだろうな。

しかし、先の大学生が話していた「普通」は、私を苦しめていた”普通”でも、祖父の願いとしての”平凡”でもないような気がしています。

推測は無意味であり、ただ向き合うことでしか理解は出来ないとはわかっていますが、この大学生のことも、夢にちゃちゃを入れられてしまった二人のことも気になっています。

この若者の意図する「普通」とは、なんなのだろう、と。

なにがあれば出会い直せるのか

2コマあればもっとやりようがあったのか(時間が長くても一人のお話しをただじっくりはお聴きできないでしょう)、

講義という枠ではない場で出会える仕組みが必要なのか(その仕組みはあってもきっと出会えないんだろうな)、

時間が短くても十分な聴き方が出来るようになれたら良いのか(複数同時だったらそれでも厳しいか)、

などとぐるぐる考えています。

こんな感じで霧が晴れる日がくるのだろうか

でも結局は、暮らしの延長でだらっと話せる空間と時間があって、それを聴き受けられる人がいる仕組みが必要で、それはつまりいまやっていることを広げていくしかないんだよな、というところに行きつくのです。

焦燥。


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