ひらめ
男が目を覚ましたのは冷水を浴びせられたからであり、冷水を浴びせたのは男の妻であった。年の瀬も近い明け方の、火でも焚かねば耐えられぬような寒さの頃である。男が驚いて見上げると、妻は床の間に置いてあった花瓶を手に持って、寝乱れた髪を整えもせず、肩で息するような様相である。点けたままであった枕元の洋燈に足元から照らされて、ぽたぽたと垂れる雫が静かに光っている。
何しやがる、と怒鳴りたいけれどもしかし男は言えぬ風情で、急激に動き出した心臓の動悸を収めるのでやっとであった。男の口が半分に開いて心臓を宥めるように呼吸が浅く行き来する。妻はそれを見咎めてようやく意識を取り戻し、「すぐに着替えを」とこれもまた休めていたために出ない音を無理に出してそう言った。花瓶を床の間に戻す音はしても、痛、と呟いた妻を見るに、そこに活けてあったはずの何らかの花の枝が床にそのままで、それを踏んだらしい。隣の間にある箪笥に向かった妻の後ろ姿に、そこでようやく男は声を取り戻す。
「な、何っ、しやがる」
しかしそれは間の抜けた言葉の出方であり、そしてそれほどの声量も出ていない。そのもどかしさ苛立たしさを男は隠すこともできずに、妻が持って戻ってきた着物をこれ見よがしに引ったくった。
身体を起こした掛け布団から、ごとりと音がするものがある。それを認めてまた男がはっとしたように、今度こそは声を思い切り出した。
「本が……!」
声は思い切り出そうとも、言葉の思い切りは未だ良くないらしい。寝入る前に読んでいた本が、哀れにも花瓶の水で濡れている。それはこの数日の男の愛読書である。
「ごめんなさい」
妻はそれに対しては思いのほか素直に謝る。夫が近頃何よりその本を大切にしていることを、分かっていないわけではないのだ。
「全体どういうつもりだ、……いくら憎かろうと寝ている夫に冷水を浴びせるやつがあるか」
ようやくと回り出した口中に、男が不平を漏らす。
「そうですけれども、」そうでなくて、
妻がそれに言い返そうものなら「お前は夫を殺そうとでも言うのか、こんなことでは殺人になったところですぐにお前が犯人だと分かるだろうに」男は自らの言葉を出すのに余念がない。普段は寡黙な男であるが、一度口が回り出すと止まらぬ質である。その上今は怒りに任せているのだから普段の十倍にも流暢で手の付けようもない。
「それに本が濡れてしまった。これは随分と探し求めていたもので、お前にはその価値も分からぬかも知れないが」「それは分かっていま」「いいや、分かっちゃあいない。これはそもそも英吉利で書かれたもので」「でも」「でもも何もあるものか、これは本国では限定品の」
妻はその男の性分を分かる以上に分かりきっているので、そのうち言い返すのをやめて、男の言い募るのをそのままに濡れた畳を拭くだの、火鉢に火を熾すだの、自らの行動の始末をつけていた。
「そも布団の代わりもないというのに何が憎くってこんなことをする」
「はあ」
妻が今晩「はあ」をやったのはもう数え切れない具合であった。それは結局のところどう答えようとも、男の言葉に干渉をし得ないからである。
「憎いと思うのであれば、昼間のうちからそう言っていればよろしい」
どう言おうとも一向に関しない男に、妻もまた関することなく、濡れた布団を引きずって部屋の片隅にとりあえず追いやってしまう。
「そうしたらこんな風に床を並べることもなく、わざわざ夜中に起き出して花瓶の水を引っ掛けてやろうと思うこともない」
それから妻はどこからか新聞の束を取り出してきて、「これは明日陰干でもすれば元に戻るかしら」など、もはや男の言葉を聞くこともなく独言ながら濡れた本を新聞紙で包んだ。
「寝ているところへ水を浴びせるくらいなら、いっそ俺を置いて里に帰るなりすれば良いのだ」
そのまま乾かせばきっと皺になるからという生活の知恵で、新聞で包んだ本の上には手近な本で重石まで乗せられてしまった。その間にも男は妻の用意した火鉢で暖を取っているのだから益もない。
「それにしても花瓶の花も可愛そうだとは思わんかね。お前が自棄を起こすからあんな風に踏まれて枝も折れてしまって」
男の文句は花の代弁にまで及ぶ。その踏んでしまった花の枝を、水を入れ直した花瓶に戻して、床の間が元通りになる頃には、男はそのまま妻の寝ていた布団で身体を温めていた。近場に置いてあったはずの煙草と灰皿を手探るもないものだから、仕様がなしに布団を肩まで被ってしまう。男が冷水を浴びせられてから半刻は経ったかもしれないが、冬の短い日はまだ昇りそうにもなかった。
ひと段落して妻が布団の横で火鉢に手を添えていると、今度は妻の綿入れの綿の量に文句をつけ出した言葉の終わりに男が「何をしている」と問うた。
「お布団はそれしかありませんから」
「そんなことは知っている、さては俺の甲斐性が不満か。それを再認識させようと言うのならそうはいかない」
男が問うたくせに、それを所以に巡り巡って文句がまた夫婦のことに戻ってくる。「俺は月三十円の……」徐に男は身体を起こすと、妻の使っている火鉢の炭を灰に埋けて、洋燈の電源さえ捻ってしまった。そのままいそいそと布団に戻り一言。「早くしないか」妻も、もう長らく男の妻であるから手慣れたもので、何も言わずその狭い布団を捲って身体を滑り入れ、人間の体温で暖を取ろうというのである。
「まったくこの師走に、明日布団を干す手間もひとつ増えてしまった。煎餅だろうが濡れれば乾くのに時間がかかる」
男の口は減らないが、狭い布団をどうしようもないから身を寄せ合うより他がない。男のぼそぼそと話す一定の声色に次第に体温で温まっていく身体、夜明け前の一悶着の疲れで、妻はそのうちうつらうつらしだす。しかしそれは男も同じで、最後には支離滅裂なことを話しながらも、そのまま二人して寝入ってしまった。
「だいいち、なんだってあんなことをしたんだ」
翌朝、妻が濡れた布団を運び出すのを横目に見ながら、ようやく考えが至ってそう問い糺そうとした手前、男は盛大な畳の焦げに気がついた。よく見ると妻の持っている布団にも、黒く焦げた形跡がある。朝になって妻がどこからか出してきた灰皿と新しい煙草と、その畳と布団とを交互に見遣って、男がついに妻に謝罪をすれば、妻は「お気に入りの本が焼けなくて良かったですね」などと涼しく言うのだから、夫はやっぱり、どうにも、頭が上がらない。
もっちりデミタスさんのアドベントカレンダー(2022)寄稿です