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〇七一九 - あの胡瓜の飾り切り -

 私の両親は嫌煙家で、大酒飲みだった双方の祖父のあらゆる蛮行を知っていたためか、酒に飲まれる質でもない。至極真っ当な両親の膝下ならぬ、小さな箱庭を飛び出して進学した私は、しかしなんの因果か煙草のもくもくと煙る酒呑の巣窟のような昔気質の小さな割烹でバイトをしていた。何年もの昔、私が学生の頃の話だ。

 小さな割烹は、ただ一人のマスターが切り盛りしていて、店内は二十人入るかそこらという手狭さ。そのくせ大きな海亀の琥珀色の剥製が壁にかかっているような、なんとも奇妙なバランスの店だ。バイトは決まって近場の学校に通う学生で、それだからそれらはそれぞれ学校が終わると店に行き、エプロンをして手を洗って、そうして毎日数人の客が来るのか来ないのか、それを気長に待ちながら、いつもマスターとただの二人きりで客を待っていた。
「どうせ客なんて来ねえよ、座んなよ」
など、マスターは私には耳馴染みのない、東京弁に似た乱雑な言葉遣いをしながら、キッチンの棚に乗ったひどく大きなペットボトルからいつものグラスに焼酎を注ぎ、いつでも片手に水割り、片手に煙草を携えている。客を待つ間はよく二人で並んで、ぼんやりとなんのこともないバラエティ番組を見ながらああだこうだと言っていた。そうして日々の数時間をマスターと二人で店内に過ごしていたのだから、きっと様々の話をしていたのだろうが、それはその当時の日常に過ぎず、今となっては特段思い出せる内容もない。

 客は大半が常連で、名前とボトルの銘柄とその飲み方と、喫煙の有無、好きなメニューなんかを、働いているうちに覚えるでもなく覚えていた。他に客の入りがなければ常連もバイトに酒を飲ませたり、はたまた煙草のお使いを任せてお釣りをチップにしたり、水の世界ではよくあるような店と客であっただろうが、小さな箱庭でちょろちょろしていただけの私にとっては、その全てに対面するのが初めてであった。特にその新しい世界を羨望するようなことはなかったものの、「客の飲み方をよく見ておけ」とたまに口にするマスターの言葉通りになんとなく、様々の人間の種類を見て、それを今でも覚えている。

 ところで私は、食事というものに生まれてこの方ほとんど興味がなく、なんなら生活の束縛として忌むこともあるほどだった。幼少時は好き嫌いが激しくあまりに何も食わないので母を泣かせたような子供であり、身体ばかり成長してからも、出されたものを残すこともしばしばのような体たらくであったけれど、そのような私の性質をほんの少し変更したのが、この小さな割烹のマスターだと言える。
 この彼の矜恃のひとつは、バイトに飯を食わせることであったに違いない。そのためにわざわざ、日々飢えている学生を雇っているのだと、冗談の端で聞いたことがある。そしておそらくそれは真だった。
「こんなに良い鯵を仕入れたのに客が来ねえから、これはお前の飯な」
「土用だからまかないは鰻です」
「お前ラッキーじゃん、今日の飯は金目鯛」
「あん肝食ったことある? 食わせてやる」
「これは今日のおやつです。堅揚げポテト」
など。マスターはバイトにあらゆるものを食わせたように思う。
 まかないの定番のメニューは、その日のお通し三点盛りに刺身の盛り合わせ、味噌汁、野菜。そこに旬のものが入ったり、酒のアテならではの揚げ物や、客に出し損ねた煮物が入ったり。今日はもう飯作るのやめた、などと言って、中華を出前で取り寄せることもあれば、数軒隣の洋食屋に出かける、通りの先のとんかつ屋で酒を飲む、大通りにある焼肉屋から、店の客のやっている鉄板焼き、駅前の王将、はたまたきれいなお姉さんのいる店まで。あらゆるラインナップを食わせたけれど、そうして結局のところわかったのは、マスターの作るものが一番美味しいということだった。なにをどうしてそんなに美味しいのか、今だって理屈はわからない。それでも、差し出してくるもの全ての味の取り方が完璧であることには間違いがない。
 私の仕事はオーダーを取り、客に運んで、皿を下げることだったが、しかしそこは酒の席、ひどい時には先までそこに客がいたはずなのに、皿の上の手付かずのそれを丸ごとごみ箱へ放り込むことで賃金を得た。脂の乗った美しい刺身を捨て、客のために特別に用意された大きな焼いたカマの、ほとんど食べられていないものを捨て、まだ香ばしさの残る揚げ物のすべてを捨てた。手ずから大量の食料をごみ箱に放る体験は私にとって強烈で、しかもそれが自らも味を知っていて、この食に興味のない人間に特段の〝美味しい〟を認識させるほどのものであるのだとわかっているからこそ、その価値を捨てることに一種の畏れを覚えた。私の性質をほんの少し変更したというのはその点で、この経験をしてから私は、よほどのことがない限り食事を残さなくなった。そんなことは当然だと、くれぐれも思ってくれないでほしい。そんな当たり前のことを私はそれまで蔑ろにしていたのだ。

 あの店で働いていた長いようで短い期間で、記憶に残っていることは前述のもののほかにもたくさんあるが、やはり一番は、マスターが悪戯を仕掛ける子供のように笑いながら言った「無理して食わなくて良いけど」である。それは実際、私に対してある種悪戯を仕掛けていたことには変わりない出来事だった。
 まだバイトを始めて間もない頃、マスターがまかないの準備をしがてら「そういやお前嫌いなもんある?」となんの気なしに聞くので、私は最後まで克服仕切れなかった食材──生のトマトの話をした。火が通っているといいんですけどね、生のトマトが苦手で、他の嫌いだった食べ物はほぼ克服したんですけど、あれだけはまだちょっと苦手ですね。……もうこの先は読めていることだろう。その日のまかないを出しながら、マスターはにやにやといろいろ述べ立てる。極め付けに「お前の嫌いなトマトです」などと言って、サラダの上に一切れだけトマトを乗せた皿をこちらに寄越しながら。千切りキャベツの透き通った黄緑色に映えるあの鮮明な赤! そして席についた私の隣でお決まりのグラスを掲げながらにやりと、「まあ、無理して食わなくて良いけど」。
 生来のお人好しならぬ見せかけの優等生と負けず嫌いのハイブリッドである私が、そのにやにやに取りうる行動などひとつしかない。真っ先にそれを口に入れて咀嚼もままならぬまま飲み込んでしまえば「食った!」と言って、これまたマスターは愉快そうに笑った。私はそんなことに関わる暇もなく、味噌汁で味をごまかすのに必死である。……しかし結局のところ、私はその後最後の砦であった生のトマトを食べられるようになったわけで、あのマスターのにやにやと悪戯に完敗したかたちになっている。

 つらつらと支離滅裂に、私はただ彼のことを書き残している。あの店にはバイトも客も、多くの人間が訪れたことだろうし、マスターは、私が思う何倍もの人間ときっとその人柄を共有していたことだろう。私は学校を卒業したのち一度きり店に訪れたのみで、マスターとは年賀状のやりとりだけをしており、近年はとんと近寄ることも、話すこともなかった。だけれども、私があの頃、あの店で過ごした世界の側面は、私にしか書き起こせるはずがない。それだから、いつか忘れてしまう前に、今ここでたとえ断片だとしても書き残しておく。

 私は覚えている、トマトを差し出したにやにやとした悪戯な表情を。料理について話す時の得意げな様子を。存外の客に立腹した姿を。酔客から私を隠したその背を。昔を懐かしむ遠い瞳を。乱雑な言葉遣いながら使わない言葉を選ぶ様を。閉店後に椅子で寝こけてよだれを垂らしていた姿勢を。魚を捌く時の手つきや、出汁を大量に仕込む姿、鍋を洗う音、天ぷらを揚げる時に油に触れる指先、作業しながら飲んでいる焼酎のグラスの氷が鳴らす音、ショッポに火をつけてかたりと置かれる安いライター、店を閉めた後に和帽子を脱いで、手に撫で付けられるグレーの頭髪、あの店内で、忙しなく立ち働く動きと瞬間を。そしてなにより誇りを持っていたその腕は非のつけどころもなく確かで、どれほど小さな食材でも見た目も美しく、魚の目利きも抜群、作りあげたものの味も確かに、一級品であったことを。

 私が卒業する前、あなたは私に「お前は十年後が楽しみだ」と言った。
「お前たちは卒業するまで、〝ホップステップジャンプ〟の〝ホップ〟のスタートラインにすら立てていないんだ」とも、ずっと聞かされていた。私はその言葉を時々思い出しながら、その時が来たら久しぶりにあの店に足を踏み入れようと思っていたのだ。
 けれどあなたは私の十年後に、もう二度と出会ってくれない。そして私の十年後をもう二度と評価してくれもしない。私はそれが悲しく、その評価にあなたの乱雑な言葉が使われないことに少し安堵し、そして、やっぱり、悲しい。私はこれから先、この感情もきっと覚えていることだろう。

心外の訃報を受けた夜更けに

2022.7.19


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