【歌舞伎鳩:番外編】海神別荘・高野聖(十月シネマ歌舞伎)
「坂東玉三郎×泉鏡花抄」と銘打ったシネマ歌舞伎4本のうち、今回は2本。
公開をとても楽しみにしていました。
だって泉鏡花の世界観が現実のものになるのが見たかった。
そして泉鏡花の文章は、読んでいて本当に美しいため、どうしても人間が話すのを聞いてみたかったのです。
残り二本の感想は以下↓
海神別荘
美女:坂東 玉三郎
博士:市川 門之助
女房:市川 笑三郎
沖の僧都:市川 猿弥
公子:市川 團十郎
人間が1日で受け取れる美の総量をやすやすと超えてくる。
舞台上の美しさ、人間の美しさ、そして紡がれる言葉の美しさ……。
美術に天野喜孝が参加していたようで、天野喜孝の作品をビジュアル化しましたといったような雰囲気。
ともかくすみずみまで美しかった。
また泉鏡花の文章の、台詞のすべてが美しく、聞き惚れてしまう……。
公子の台詞のすべてが、いちいちドラマチックでロマンチックなので、打ちのめされてしまいます。美女に名前がついていないため、ずっと「あなた」と呼びかける。あらゆる色合いの「あなた」があまりに素敵でたまらなかった。
公子たちの世界と、人間の世界が違うということを表すために、表現にスケール感の差が生かされているのですが、それが「自分は海底に連れてこられた時に、公子の(邪悪な)力で生命を奪われてしまった」ものと思い込む美女の人間臭さを裏付けていた。鳩も干渉しながら途中までそう思っていたし、人間のちっぽけさに公子が怒るのも無理はない。
しかしラスト、そこでか……そこで惚れるのか……!?とは思いましたが、一介の小説の書き手として、確かにそこでぐっと盛り上がりをつけて、恋情を描くのは楽しいだろうなと思う。
愛こそがすべて、というような終わり方だけど、ダークでファンタジックな世界観の中にあると、あまり嫌らしさを感じないものですね。
細かいこと
・公子のそこはかとない棒読み感は、こだわりのない人外のものであるという表現なのか、そうでないのか、どっちなんですか……。
・公子、ずっと美女の顔の話しかしてない。美しいから惚れたんですね。"美しい姿"が至上命題。他はいいのか、と少し思ってしまうな。
高野聖
シネマ歌舞伎用に映像編集をしてあるようで、舞台映像と、実際の山などで撮影した映像がオーバーラップするのが、この山の怪しさを引き立てていて面白かった。実際の舞台がどのような感じで上演されていたかもかなり気になるところ。公演かけませんか?
女、始終妖しさを湛えながらも、宗朝に対する時、夫に対する時、親仁に対する時、動物に対する時で、すべての表情が違う。それでいて、視線のひとつで相手を誘惑するような雰囲気を出すのが恐ろしい。
宗朝はこのあと二度と、あの山道を通らないようにするのだろうけれども、女と夫と親仁は、ずっとたまに現れる動物でやりくりしながらやっていくのだろうか。女は妖しく、人間ではないもののようにしているけれども、実は親仁も夫も、もうほんとうは人間ではないのだったりして。その逆で、全員確かに人間である、というのも面白いけれども。
細かいこと
・原作を読んでいた時に、ヒルの山のあたりでぞわっぞわしてかなわなかったのですが、こちらでもヒルを再現してあり、再びぞわぞわしました……。ヒィ
・知っていたけど、そう簡単に脱がんで!!!!!!! 美女の柔肌……!と思ってびっくりするので(男性ですが)。
・歌舞伎で出てくる人力の馬のこと、とても好きかもしれない。
余談
いつか「滝の白糸」をかけてくれないかな。泉鏡花に惚れ込んだのは、「滝の白糸」の元になっている「義血狭血」という作品でした。
内容のドラマチックさ・ロマンチックさ、文章の美しさ、文体のリズム感の良さ、初めの方で書いた通り、声に出して読むことで一層美しさの増す文章だと思うのですよね。だから、いつか「滝の白糸」が観たい。