【歌舞伎鳩】新版歌祭文 野崎村・籠釣瓶花街酔醒ほか(猿若祭二月大歌舞伎)
ともかく篠山紀信が撮影した写真とポスターを見てください。
ほんとうにこのビジュアルが美しく整っていて、どのお写真もポスターも素晴らしい。これが情報として出てから、輪を掛けて見物に行くのが楽しみになりました。
演目の中で先に知っていたのは「籠釣瓶花街酔醒」と「連獅子」。特に籠釣瓶の、八ツ橋の凜とした気品と、次郎左衛門の優しげな顔の中で八ツ橋の美しさに魂を奪われた表情が美事です。
初めてこういうもののクリアファイルを買いました(ポスターは全部揃えたくなっちゃう気がしたので我慢……)。
👒は鳩的好きな演目
👒 新版歌祭文 野崎村
ざっくりとしたあらすじ:
野崎村の百姓久作(坂東彌十郎)の家には二人の養子がおり、その二人、久松(中村七之助)とお光(中村鶴松)は許嫁となっている。久松が奉公先から戻り、お光と祝言をあげるという時、奉公先の油屋の娘・お染(中村児太郎)が久松恋しさに家を訪ねてきた。かねてより恋仲であった久松とお染は、叶わぬ恋に心中を誓い合う。そんな二人の覚悟を悟ったお光は……。
きちんとしたあらすじはこちら。
お前ら、お光の業を背負って生きていく覚悟あんのか!!!!?????
お光が身を引いて出家したから泣く泣く田舎を離れて結ばれるって、結局自分らの良いようになっただけやんか。あんな可愛い女を泣かせるなんて、というかあんな可愛い女がありながら他に恋人作るなんて許せん。いくら色男でも許せんぞ久松。だいたい叶わないから祝言の後に心中しようって何!?!?!? お光の心を一度でも想ったことがあるのか!? 恋する人と祝言をあげたあとに他の女と死なれるなんて、どれだけ残酷なことかわかってんの!?
そもそもなんですけど、ここでお光が身を引いたところで、結局二人は結婚して、表向き悪かったという思いを抱きながら、仲良くよろしくやるだけじゃないですか。お光があんなに良い娘じゃなかったら、呪われても殺されても文句言えないのわかってるんですか? 昼の部の終わりがそういうお話だし、いっそその方が清々しい気さえしてきた。幕引きの、お光の堪えかねた嘆き。あんまりにも悲しい。胸が潰れて鳩も泣いてしまった。どうしてくれるのすぐに幕間なのにさ。
だいたい心中したいなんて言えるのはお前らじゃないんよ、髪を切るだけに留めたお光の方がよっぽどですが? 思い上がるなよ……。しかしそう考えると、この点で「四谷怪談」はうまくできているのでは、とふと思った。あれはお岩さんの復讐譚でもあるんだな。
幕開きの、お大根とんとんしながら、祝言に浮かれてきゃっきゃして弾んでいるお光があんまりにも可愛かったので、もうずっとそうして幸せに暮らしてほしかった。今すぐに還俗して(しなくてもいいけど)、お光の幸せを掴んでほしい。あんなどうしようもない男のことはもう忘れよう。
鳩はどうもお光のような、可憐というか、ちゃきちゃきした直情的な町娘が好みらしいことに気がついた。そしてこういう可愛い女が酷い目に遭うとめちゃくちゃに怒ります(お三輪とか……)。怒ってるけど演目自体はちゃんと楽しんでるよ。
釣女
ざっくりとしたあらすじ:
戎神社へ、縁結びの参詣をする大名(中村萬太郎)と太郎冠者(中村獅童)。夢のお告げに従って釣竿をさげると、大名は美しい上臈(坂東新悟)を釣り上げる。それに倣い、同じような美しい女を得ようと、太郎冠者も釣竿を下げるが……。
きちんとしたあらすじはこちら。
ウッフフフ。普通にね、面白かったです。こういうなんか素朴な面白い演目好き。能の演目を歌舞伎に、というのは結構見てきましたが、狂言も独立した演目があるんですね。
醜女(中村芝翫)がまたすごいお化粧でしたけれども、美しくお化粧をする技術があるからこそ、どこをどう崩したら良いか、というのがわかるんだろうなあ。
醜女と太郎冠者の隣で、麗しい人たちが美しく舞を踊っていたりするけれども、醜女と太郎冠者が何やらしすぎていて、麗しい人たちに全く目がいかない……笑。醜女も醜女ではあるけれども良い女かもしれないので、太郎冠者もいい思いができるといいね……。
狂言ってはじめに必ず自己紹介をしてくれる印象があって(学び:「名乗り」という)、あれがとても好き。自己紹介してはくれるけど、あるようでないような名前の感じとか(大名も太郎冠者も上臈も醜女も、固有名詞ではないよね)、名乗ってくれる割にはあやふやな感じが面白い。
籠釣瓶花街酔醒
ざっくりとしたあらすじ:
佐野の絹商人・次郎左衛門(中村勘九郎)は、下男治六(中村橋之助)とともに、商売帰りに吉原に立ち寄る。土産話のための見学だけのつもりであったが、花魁道中に突き当たり、次郎左衛門は兵庫屋八ツ橋(中村七之助)に一目惚れ。吉原通いをすることに。綺麗な遊び方をする次郎左衛門は評判が良く、身請け話まで出ているものの、八ツ橋には繁山栄之丞(片岡仁左衛門)という情夫がいて……。
きちんとしたあらすじはこちら。
シネマ歌舞伎で一度見ており、劇場で見るのは初めて。今回はお話が入った状態でみておりました。
以前見た時は、どこまで派手に美しい格好をしていても所詮女は添え物、男の見栄の世界だな〜などと思っていたのですが、改めて見てみると、結構八ツ橋の方にも焦点が当たっているんですね。愛想尽かしからが強烈すぎて、八ツ橋の印象がそこに偏っていたのかも。
八ツ橋も可哀想というか、起請文を盾に恋人に迫られて打ち伏す姿などを見ていると、もしかするとあんまり気の強い女ではなかったのかもしれない。吉原に勤める身分でまだ好いている情夫に捨てられるのは、確かに堪えるものもあるのだろうなあ。しかしながらあの愛想尽かし、相当な店の不利益になるはずなので、下手したら八ツ橋本人だってただじゃすまなかったのでは……? いくら筆頭の花魁とはいえ、勤めの身分だし……。しかもそれを見越すとするなら結局、栄之丞にも利益がないのでは……。
栄之丞、八ツ橋をちっとは信じてやれよな……!?!?!? 仮にも恋人、あんなに尽くしてくれているのに。もしかして浪人として八ツ橋に養われているような生活に、引け目でもあったんだろうか。客との浮気で面子を潰された、というのもあるにはあるのかもしれないけど、人伝で聞いた話で、八ツ橋本人から聞いていないのに?そっちをなぜ信じる?とも思う。しかし、しかしそれはそれとして、英之丞はちょっとした立ち姿も色男であまりに格好良いため、あんなの惚れちゃうわよね。八ツ橋が必死になるのも仕方ないのかも……なんて思わせてくるので罪深い。だいたいお前のせいです。
最期の八ツ橋の死に際はあまりに美事で、死んでゆくのに美しかった。八ツ橋は傾城として、美しいまま死んでいく。そしてそれを冷めた目で眺める次郎左衛門よ。もうその瞳には憎しみしか写っていなくて、悲しかった。あんなに気の良い人だったのに、八ツ橋はそれほどのことをしてしまったのだとはいえ、性根の良い優しい人が憎しみに歪められてもう戻らないことが悲しい。
けれど野崎村を先に見てしまったために、もうこうなってしまったらいっそ大惨事起こした方がマシなのでは!?という過激な思想にもなってしまった。このままただ次郎左衛門が田舎に帰ったら、彼はいつ報われるんだ、と思ってしまう……。殺しはだめなんですけど……。わかってるけど……。
猿若江戸の初櫓
ざっくりとしたあらすじ:
京で評判の猿若(中村勘太郎)と出雲の阿国(中村七之助)が江戸へ。材木商の福富屋夫婦(中村芝翫・中村福助)を助け、江戸にて歌舞伎踊りの櫓をあげるまでの縁起譚。江戸歌舞伎の発祥を描く舞踊劇。
きちんとしたあらすじはこちら。
踊りが上手い、とはどういうことか、というのを理解しました。ひとつひとつの動きが美しく、体幹がしっかりしていて安定感があるということなのかな。勘太郎くん、将来有望すぎる。本人の努力才能と、加えて教え手が大変良いのでしょうね……。ところどころ、勘九郎さんの動きが見える。
ああやって江戸で歌舞伎が始まったのだということを、きちんと自らの表現として後世に伝えて今まできている、というのが、己の生業への誇りのようなものを感じられて良かった。しかもそれが本当に血縁上の子孫が受け継いでいくわけですので、感慨深いです。そしてまたここから、彼らが子孫に伝えていくんだなあ。今演じている人間がいなくなっても、今見ている観客がいなくなっても。芸だけがただその時のことを保存したまま、受け継いできた人間の思いまでもを付加して、それを繋げていく。エモであり、ろまんですね。
連獅子
ざっくりとしたあらすじ:
狂言師右近(中村勘九郎)・左近(中村長三郎)が、文殊菩薩の住む清涼山の石橋の様子や、「親獅子は子獅子を谷に突き落とし、這い上がった子だけを育てる」という故事を踊る。
間狂言では、浄土の僧遍念(中村歌昇)と法華の僧蓮念(中村橋之助)が清涼山に登りながら、宗論を戦わせる。
暴風に僧が逃げ帰ると、親獅子(中村勘九郎)と子獅子(中村長三郎)が登場し、激しく舞い踊る。
きちんとしたあらすじはこちら。
開演前のイヤホンガイドのインタビューで、前回勘九郎さんが勘太郎くん(長男)と踊った時のことを「お客さんがみんな子獅子ばかり見ていて悔しい(自分も親獅子初役なのに)」など笑いながら話しており、そんなどちらかに目を取られるような演目だったっけ(一度だけ見たことがある)と思っていたのですが、始まってみてわかりました。しょうがないね!
長三郎くんは十歳くらい? 大人の半分もない背丈の子供が、あんな壮麗な衣装と鬘とお化粧をして、大人顔負けで踊るもんだから、それはもうしようがない! 視線はそっちに奪われます。
子獅子はまだたまに、踊っている間にふらついたりもするのですが、30分近くある演目をあれだけきっちりこなせれば、もう素晴らしいです。背丈や足拍子の音の軽さに子供を感じるけれども、踊っている間はそういった年齢のようなものを一切感じさせない。見事でした。
この幕は幕見していたのですが、やはりなんかこう、勘九郎さんは四階席まできちんと見ている感じがある。視線の動かし方が遠いというか広いというか、くまなく視線の表情がある感じ。その表現のために、清涼山の壮大さが生み出されていた。
年明けから踊りを見る機会が多く、いろんな役者さんの踊りを見ていましたが、勘九郎さんは体幹がめちゃくちゃ良いのでは?ということにようやく気がついた。動作の中で静止した姿勢がすっとしていて美しい。「猿若江戸の初櫓」と「連獅子」と同日に見ていて、ここにきてようやく踊りの美しさを理解したかもしれない。
あとはあれですかね、実は鬘の先まで神経が通っていたりしますか? ものすごく絶妙に毛先が動いていて、あれは完全に自らの髪として機能していた……。本当に、親獅子も、何気ない動作のひとつひとつまでが見事でした。
公演概要
十八世中村勘三郎十三回忌追善 猿若祭二月大歌舞伎
2024年2月2日(金)~26日(月)
昼の部:新版歌祭文 野崎村・釣女・籠釣瓶花街酔醒
夜の部:猿若江戸の初櫓・義経千本桜 すし屋・連獅子
歌舞伎座