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結婚において、なぜ女は男に相手にされなくなったのか?

「昔の女性はいやいや結婚していた」

よく耳にする言説だが、本当にそれだけだったのだろうか。

明治・大正期の女性たちは、想像を絶するほど家庭運営に秀でていた。炊事・洗濯・掃除といった家事はもちろん、保存食作り、裁縫、子育て、さらには一家の健康管理まで、その能力は多岐にわたる。現代では冷蔵庫も電子レンジも乾燥機付き洗濯機も当たり前だが、当時は何一つ存在しない。
その制約の中で、女性たちは丸腰の状態からあらゆる家事スキルを習得し、家族を支えていた。たとえば、地方の村落では、冬を越すために大量の味噌や漬物を仕込み、丈夫な衣類を自ら縫い、健康を保つための薬草知識まで身につけていたケースも多い。

こうした高い能力があったからこそ、男性は「この女性を逃がしたくない」と必死になった。結婚は単なる家同士の結びつきではなく、「いかに有能な女性と家庭を築くか」の人生を左右する壮大なプロジェクトだったのだ。結婚相手は慎重に選ばれ、親も血眼になって次世代を存続させるパートナーを見繕った。

つまり、「昔の女性はいやいや結婚」という評価は、その裏側に「強く有能な女性が奪い合われていた現実」を見落としている、と考えられる。

現代男性にとって結婚は後回し

では現代はどうだろうか?
「現代の女性は開放された」と語る人もいるが、果たしてそうだろうか?

現代では、若い男性が将来を考えるとき、視野に入るのは学業や就職、スポーツや趣味など、圧倒的に個人目標が優先されている。「将来は頼れる女性と家庭を築く」という発想は薄れ、「仕事が安定して余裕ができたら結婚でも考えるか」という程度の後回し感が漂う。

昔は「優秀な主婦」を得ることが生活基盤を整える要だった。しかし、洗濯機、電子レンジ、ネット通販、宅配サービスなどが整い、独身でも生活に不自由がない今、必死になって結婚相手を探す理由が見当たらない。現代男性にとって結婚は、「人生の必須条件」ではなく、むしろ「娯楽」の一つになり下がった。これは女性側にとって幸せなのか?それとも単に興味を失われた悲劇なのか…。

女を無能にした現代教育

「昔の女は強く、有能で、だからこそ求婚の的になった」とすれば、現代の女性はどう見えるのか。残念ながら、多くの男性は「役に立つ女性」を求めなくなっている。なぜなら、もはや家事能力をはじめとする生活スキルが、女性特有の価値として期待されなくなってしまったからだ。そして、その背景には教育の変遷がある。

明治・大正期の女性は、文字通り命がけで家庭運営スキルを磨いた。それは自分や家族が生き延びるための必須能力だった。しかし現代では、家電や外部サービスが当たり前になり、多くの女性が「当たり前」以上のスキルを求められなくなった。家庭科教育はあっても断片的で、家庭を丸ごとマネジメントするための知識や忍耐力を養うカリキュラムは希薄である。結果、現代の女性は「弱く無能な存在」として、かつての女性がもっていた“即戦力”の輝きを失ってしまったように見える。

現代の恋愛は、物質的な基盤は整っているからこそ、女性が重宝される理由が薄くなった。結果、男を惹きつける要素は「容姿」や「セックス」といった分かりやすい娯楽要素へとシフトしている。かつて女性が備えていた生活必需的スキルに代わり、身体的魅力が前面に出る社会では、婚姻は必須でなくなり、男女は気軽な関係で繋がり、また簡単に離れていく。恋愛がコモディティ化し、女性が活躍できる土俵が狭まってしまった。

女性教育の軽視が招いた「女性差別」の副産物

「昔より自由になったじゃないか」という反論もあるだろう。確かに現代女性は、無理矢理な縁談や嫁入り修行から解放され、進学・就職や自分磨きの選択肢を得ている。しかし、その背後には“女に必要なスキル”そのものが軽視されてきた歴史があるのではないだろうか。

教育制度は明治以降、国力の向上を念頭に「近代的学問」を重視した。歴史、科学、数学、言語、といった「男の領域」的知識こそが人材育成の華とされ、家庭運営力や生活技術は下に見られた。こうして学校教育は家庭科を副次的扱いにし、女子教育は“おまけ”のような形でしか実施されなかった。女性が本来身につけるべき力を“古臭い専業主婦の能力”と蔑み、鍛える機会を奪ったのだ。

その結果、女性は家庭を運営し、家族を支える実務的な力を養う任務から外され、ただ「自由」という名の空虚な場に放り出された。「自由になった!」と声高に言う女性たちも、その背後では確かな技能を磨く機会を奪われている。つまり、現代女性が「有能な家庭運営者」ではなくなったのは、教育政策や社会的な価値観が生み出した女性差別の副産物でもある。

真の解放とは?

では、真に女性が「開放」されるとは何を意味するのだろうか。現代女性が引き受けるべきは、「昔に戻れ」という単純な話ではない。むしろ、女性にしかもたらせない家庭経営力や出産・育児への献身、生活全般を支える強さが、社会全体でリスペクトされる道筋を取り戻すことではないだろうか。

家電や外注サービスで手間は減った。しかし、その分、人間としての本質的な能力、すなわち生命を繋ぎ、共同体を維持し、生活をクリエイトする力、はおざなりにされてはいないか。この力は性別関係なく尊重されるべきだが、少なくとも歴史的に女性が担ってきた領域であり、そこにこそ女性的な価値が潜む。

もし現代女性が改めて「生活そのもの」を創り出し、新たな文化を生み出せれば、男女関係は再び有意味な結びつきを取り戻すだろう。そうすれば、女性は容姿やセックスアピールだけでなく、真の意味で必要とされる存在へと返り咲くはずだ。そして、男性もまた、女性の能力を軽視することなく、共に家庭運営のパートナーとして真剣に向き合う。これこそ真の「開放」ではないだろうか。

女性の本質的な価値とは?

昔の女性がいやいや結婚していたとしても、その背景には女性が社会から求められ、奪い合われるほどの有能さがあった。現代では、女性が本来培うべき生活技術を軽視し、学問や仕事という「男の領域」の追随ばかりを重要視した結果、「何もできない女性」という皮肉なポジションに陥ってしまった。そして男性は、そうした女性を結婚という形で確保しようとしなくなった。
これは女性差別の一形態であり、教育政策や社会価値観の失敗である。もし本当の解放を望むなら、女性固有の強みを再評価し、生かす道筋を再構築しなければならない。

賛否を呼ぶことは承知の上だが、現代の「女性解放」論は過去の有能な女性像に学ぶことで、ようやく足場を固めることができる。今一度、女性の本質的価値を見つめ直すべきではないだろうか。

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