【デュアルライフ夏休み 3日目】庭の草刈りで感じた発見
庭の草刈りを本格的に開始
夏休みの期間に、庭をきれいにするためにはの草刈りを本格的に開始することにした。本来であれば新しい家を建てたときには、外構業者に庭の設計をお願いし、自分たちで草刈りをする人は稀なのではないかと思う。うちの場合は、シンプルに外構に対してお金をかけることができないと言う事情があった笑。
いくつかのYouTubeなどで勉強した後、どうやら一般的な芝刈り機では雑草に対して一定の効果を発揮し、ちゃんと草刈りができると言うことを確認した。前面に芝生を貼れば、1,000,000円違いのお金がかかってくる。しかし自分で雑草をただ刈るだけであれば、0円で行ける。
もちろん、自分の労力がかかるわけだが、一方で運動にもなるらしいと言うことを聞いて、自分を奮い立たせ草刈りをついに開始したわけだ。
これまで行ったことがなかったホームセンターに立ち寄り、カインズのオリジナルブランドであるリール式の草刈り機を購入した。約7000円強の手動の芝刈り機。
電動にするにはまだ自分にとっては早いと思い、手動で行くことにした。ここから、自分の庭を良くするための戦いが始まったわけだ。
なんのためにやるのかを間違わない
隣の芝は青いとよく言ったように、実際にうちの家の隣はきれいに芝生を貼っている。やはり芝生っていいなぁと思いながら、それらを横目に見て、考える。
そもそも、この女は何のためにあるのかと言う最終的な目的を改めてよく考える。やはりそれは子供たちが楽しく遊べるような庭であること。また、自分たちの手間がかからないような庭であること。そして窓から見える庭の風景が綺麗であること。
俺らが満たされるためには、芝生と言うのは実はあまり良い方法ではない。なぜなら、芝生をきれいにしておくためには、子供たちが芝を荒らしてはいけないと言う条件が伴う。
つまり、せっかく庭を作ったので、子供たちが自由に遊ぼうと思うと、大人たちの目線から「そこで遊んではダメだ」とか「地を掘り返してはいけない」とかいくつもの制限が出てくるわけだ。これだと明らかに本末転倒である。
同時に、手間をかけてしまってはいけない。ここで言う手間とは通常のメンテナンスの手間だ。基本的には2拠点生活をするのであって、毎日そこに住んでいるわけではない。つまり水やりは基本的にはできない。
芝生の育て方を確認してみると、元はやはり水やりが毎日欠かせないらしい。もちろん夏が暑ければ、余計に毎日水やりをして、芝が根を貼るのを待たなければいけない。たまたま、この8月は休みを取っているので、水やりができなくはないが、一方で、仕事が始まる9月になれば水やりができるのは土曜日と日曜日の二日間だけ。新しい植栽をすれば、また同様の水やりや手間ひまが発生してくる。
これらのことを考えると、雨が降っていても止んでいても、日差しさえあればぐんぐんと育っていく、「雑草」を自分たちの仲間として引き込む必要がありそうだと考えた。
雑草であれば、子供たちがどんなに庭をいじくったり、乱暴に扱ったとしても、全く気にならない笑。水やりの問題も、どこ吹く風だ。そもそも誰も何もしなくてもぼうぼうと生えている雑草だから、自由になんかほとんどしなくてもいい。
問題は、窓から見える外の景観の綺麗さだけだ。
仲間と敵を見極める
こうして、雑草を使って人をきれいにできるかどうかと言うチャレンジが自分の中で始まっている。
手押し車式の草刈り機をコロコロとしながら気づいたことの方が、刈れば刈るほどすごくきれいになっている雑草と、刈っても刈っても全くきれいにならない雑草があるらしい。
よくよく見てみると、庭を覆っている雑草には、縦に細い稲のような植物と、横に円状に広がっていく雑草の2種類が大きく分かれるようだ。
前者の、稲のような植物は刈れば刈るほど1種の芝のように、毛並みの方向の揃った絨毯のようになっていく。僕はこれを「仲間」と呼ぶことにした。
一方で、例えばたんぽぽやオオバコのように横に円形に伸びていく植物は、そもそも刈ることが難しいだけではなく、刈ったとしてもきれいな見た目にはならいない。「死んだ植物」のように地面にのべーっと横たわってしまう。僕はこれを「敵」と呼ぶことにした。
とにかく雑草を使って庭をきれいにしていくためには、この仲間を大切にしていく必要がある。仲間はなんども草刈り機を動かしていくと段々と毛並みが揃っていく。
一方で、敵に対してはとにかく、植木の刈り込み鋏のようなものでザックザックと切っていく。
よくここで、雑草は根っこから取らなければいけないと言うことを聞いたことがあるが、僕の目的からすれば、それは全く必要がないと感じている。(これについてはどこかで詳しく話してみよう)。とにかく、難しいことを考えずに、仲間を増やし敵を減らすべくこれからも続々と庭の草刈りを進めていきたいと思う。