【港区スポット】「日本一低い山」でなくなっても天保山はやっぱり日本一の山だった!?
8月11日は山の日。平坦な地形が広がる港区ですが、日本一低い山として親しまれてきた「天保山」は、大阪の歴史が刻まれた港区を代表するスポットです。
安治川の河口部に位置する標高4.53mの天保山。
国土地理院の地形図に記載されている山として、ながらく日本で最も低い山とされてきましたが、東日本大震災の津波によって削られて標高3mとなった仙台市の日和山に日本一低い山の称号を譲ることになりました。
それでも天保山は、日本一と呼べるエピソードが満載なんです!
まずは、その成り立ちから。天保山の歴史は、今から約190年前の1831年(天保2年)に行われた安治川の大規模な川ざらえから始まります。
上流から絶えず土砂が流れ込む安治川は、放っておくとどんどん川底が浅くなり、洪水の被害や船の航行に支障を来たすことから、幕府は、大坂町人に安治川の川ざらえを命じます。
特に天保2年の川ざらえは「御救大浚(おすくいおおさらえ)」と呼ばれ、のべ10万人もの人々が砂運びに参加しました。
単なる作業では面白くないと、町会ごとにおそろいの法被に身を包み、お祭り騒ぎの様相を呈し、本来の作業がおろそかになることもあったとか。。。
大阪の人々が力を合わせて築かれた天保山。日本の物流を守るとともに、風光明媚な観光スポットしても整備され、日本で最初の公民連携によるウォーターフロント開発と言えるものでした。
その後、幕末に砲台を置くため天保山は削られてしまいますが、明治天皇臨席のもと、日本で初めての観艦式が行われたのも天保山でした。
ちなみに、現在大阪天守閣にある大砲は、天保山のお台場にあったものだそうです。
太平洋戦争後は、天保山一帯が天保山公園として整備されますが、地盤沈下も合わさって標高が5mを切ると、1993年には、地形図から天保山の記載がなくなってしまいます。
歴史ある天保山の名称が消えたことに地元の人々が立ち上がり、天保山の記載を復活するよう署名活動も行った結果、1996年に晴れて地形図に天保山の記載が復活し、今に受け継がれているのです。
天保山の詳しい歴史はこちらでも↓
天保山にまつわるエピソードをもう一つ。
天保山という地名は大阪以外にも、今治市と鹿児島市にあるのですが、とりわけ大阪の天保山と鹿児島の天保山には、両者をつなぐ共通項が驚くほどあるんです。
どちらも江戸時代の天保年間に川浚えで発生した土砂を積み上げて築かれた山であること、江戸幕府末期に外国軍艦の防御のための砲台が設置されたこと、日本で最初の新婚旅行といわれている坂本龍馬とお龍の出発の地が大阪の天保山であり、到着の地が鹿児島の天保山であることなどなど。。。
そして、天保山の対岸には桜島が!
此花区の地名の由来を調べても、天保山と桜島の関係を記したものはないのですが、幕末から明治にかけて、大阪と鹿児島のつながりは非常に強く、初代大阪税関長であり、大阪商工会議所の初代会頭など、大阪経済の発展に多大な貢献を果たした五代友厚も薩摩出身であり、薩摩の人々が大阪の天保山と故郷の天保山を重ね合わせて、対岸の地を桜島と名付けたのでは… そんな妄想が広がります。
江戸時代から現在に至るまで、歴史の大きな流れとともに歩んできた天保山は、やっぱり日本一と呼ぶにふさわしい山だったのです!
《み(ん)なとライター・ほそたろ~》