【港区まち歩き】港区の歴史探訪 Vol.1 ~波除・弁天エリア~
今年4月に大規模リニューアルが完了した大阪ベイタワー。
毎月第4日曜日は、「こだわりのおいしい!を集めたフードコート POP BAY」も開催され、みなとぐらしに彩りを添えてくれています。
そんな魅力がいっぱい詰まった大阪ベイタワーに遊びに来られた際には、ちょっと足をのばして港区の歴史に触れるまち歩きを楽しんでみてはいかがでしょうか。
今回は、港区の歴史探訪まち歩き第1弾として、大阪ベイタワーを起終点として波除・弁天エリアの歴史をたどるコースをご案内いたします!
江戸時代までは、港区域のほとんどは海の底でしたが、江戸時代に入ると、大阪湾岸部では新田開発が盛んにおこなわれ、港区域も陸地化が進んでいきました。
とりわけ大阪では、幕府が町人に許可を与えて行う町人請負新田といわれる新田開発がすすめられ、「市岡」「田中」「八幡屋」といった町人の名が、現在の町名に引き継がれています。
現在は、新田開発当時の痕跡は町名に残る程度ですが、数少ない伝承スポットとして、波除公園内に「市岡新田会所跡の碑」が建立されています。
ちなみに、新田会所とは、地主が新田管理のために設置した事務所のことで、市岡新田は、大阪湾岸部で最も規模が大きかったそうです。
波除公園を後にして、西に向かうと、かつては、瀬戸内航路の発着地として大いに賑わっていた弁天ふ頭に到着。
今でこそ、当時の賑わいはありませんが、旧加藤汽船ビルとその周りに旅館や食堂が並ぶ風景を眺めていると、昭和にタイムスリップしたようです。
個人的には、母の故郷が淡路島なので、弁天ふ頭から高速艇に乗って淡路島に行った記憶がよみがえる胸アツスポットです(笑)
弁天ふ頭から大阪ベイタワーへの帰路は、波除山跡地の碑がある弁天東公園に立ち寄ります。
波除山は、天保山の誕生からさかのぼること約150年前の1684年、河村瑞賢により行われた安治川開削で発生した土砂を積み上げられてできた山です。
瑞賢山とも呼ばれた波除山は、「天下の台所・大坂」にやってくる菱垣廻船や北前船の目印山として、安治川河口部のランドマークとなっていました。
そして、北前船と言えば昆布!
「天下の台所・大坂」を支えた安治川と切っても切れない波除山があった場所に、昆布の不二食品さんが移転してこられたのも、何かのご縁を強く感じます。
今回のルートは、港区の発祥の地ともいえる市岡新田や波除山の歴史を今に伝える場所をめぐってみました。
江戸時代の頃の痕跡はもうありませんが、古地図を片手にまちを歩けば、新たな発見があるかもしれませんね!
《み(ん)なとライター・ほそたろ~》
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