資本主義的価値観の対概念についてぼんやり考える。
こんにちは!最近暑い日が続いていますね。
まぁ、僕は家でレポートに追われているんで外の暑さを体感していないんですが。
薄っぺらい自己紹介を除くと一発目の投稿なので少し気合が入っています。
今回はこの前映画を見た時にふと思ったことを書いていこうと思います。
その映画は『人情紙風船』というタイトルで、監督は昭和初期の名監督、山中貞雄です!
この映画は山中貞雄の遺作で、彼はこの作品を作ったあと戦争に行き、戦地で病死してしまいます。
歌舞伎の『梅雨小袖昔八丈』を原作とする時代劇です。時代劇と聞くとチャンバラとか勧善懲悪なんかをイメージする人もいるかと思いますが、この映画はそういった類の話ではなく、どちらかというと群像劇です。
以下で簡単にあらすじを書きますが、この映画にもし興味を持った人がいたら、あらすじを読むより先に映画を見ることをオススメします。
~あらすじ~
江戸の貧乏長屋で浪人の首吊りが発生、役人が調べに来る。長屋の住人である髪結いの新三は、長屋の連中で浪人の為にお通夜をしてやろうと言い、大家を説き伏せて酒をせしめる。お通夜が行われるが、長屋の連中は酒がただで飲めると喜び陽気な馬鹿騒ぎを行う。
同じ長屋にいる浪人の海野又十郎は、父の知人の毛利三左衛門に仕官の口を頼みに行くが、邪険に扱われ相手にしてもらえない。その毛利三左衛門は質屋である白子屋の店主の愛娘お駒をさる高家の武士の嫁にしようと画策している。しかし当のお駒は番頭の忠七とできている。
新三は自分で賭場を開いていたが、ヤクザの大親分弥太五郎源七の怒りを買い散々な目にあってしまう。そのせいで金に困り、髪結いの道具を白子屋に持ち込むが相手にしてもらえない。(ヤクザと白子屋は繋がっている)
海野又十郎は、懲りずに何度も毛利三左衛門に会いに行くが、ある日どしゃぶりの雨の夜に「もう来るな」と言われてしまう。同じ日の夜、忠七が店へ傘を取りに戻っているのを待っているお駒を見かけた新三は、彼女を自分の長屋に連れて帰ってしまう。白子屋の用心棒をしている弥太五郎源七を困らせる為だ。
誘拐を知った白子屋、嫁入り前の大事な時だと源七らを使って、長屋にお駒を引き取りにくるが、新三は源七らを追い返してしまう。その後、大家の計らいで、お駒は無事に白子屋へ帰され、大家と新三は50両の大金を得、その夜、その金で宴会をする。
誘拐の片棒を担いだ又十郎も分け前の金を貰って宴会に行くが、真面目だと思われていた又十郎の行為に長屋の女房たちは良い顔をしない。それを知った妻のおたきがとった行動とは。
(Wikipediaから引用 一部加筆)
上のあらすじを見てもらってもわかりにくいかもしれませんが、この映画では途中で、貧乏長屋に生活する新三と又十郎VS白子屋と毛利三左衛門とヤクザという貧民と金持ちの二項対立の構図になります。
金持ちにいじめられた貧民が人質をとって金持ちを困らせた。という感じです。
ここでやっとこのnoteのタイトル通り資本主義的価値観とその対概念について考え始めるんですが、白子屋や毛利三左衛門は間違いなく資本主義的な価値観をもっています。常に損得勘定で動いています。
一方、貧乏長屋の人間達をみてみると、彼らは資本主義的な価値観をもっていないんですね。50両の大金を惜しげも無く宴会で使ってしまうんです。また、新三と海野又十郎が人質をとったのは金のためではなく、ただ弥太五郎源七を困らせたくてやったんです。それをみた大家がこの人質を使って金をせしめたという流れなので、新三と海野又十郎は全く資本主義的な価値観を持ち合わせていないんです。
江戸っ子の性格を表す言葉で、「宵越しの銭は持たない」という言葉があります。義理や人情を大切にする江戸っ子は貧しい長屋で暮らしながらもお互いに持ちつ持たれつしながらエネルギッシュに日々を謳歌しています。
こう考えてみると、なんだか「人情」っていう概念は資本主義的な価値観とは対極にあるような気がしてきます。
そして「人情」は、全員が平等という社会主義思想とも異なっているように感じました。社会主義というと、どこか抑圧的な支配のイメージを伴いますが、「人情」を大事にする社会では、信頼に基づく財産の主体的な共有が行われているのです。
こういった「人情」という概念はある程度狭い規模だからこそ成り立つものであって、近代以降の民族とか国家という枠組みの中では成り立ちませんがね。
ここまでの話はあくまでも個人的な見解であって全く正しいものでは無いので、もし意見や反論、補足などがあったらコメントして欲しいです。
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