貧しさも豊かさも失敗も成功も一通り経験してミドルクライシスになった中年は、悟るしかない。
ミドルクライシスとは、中年になった大人が目標ややる気を失ってしまうことです。表面的には数ヶ月で脱出することもあるらしいです。若い頃に掲げていた目標と同じベクトルの新たな目標を再設定して、または、他者や社会に奉仕するという目標を設定して、奮起することで、危機から脱出します。
しかし、私の独断と偏見で述べさせてもらうと、そうやって新たなモチベーションの種を見つけても、若い頃のようにはもはや燃えることはできないのではないかと思います。
忙しく作業に没頭しても、どこかで冷めている。そう、覚めている。
今まで自分がいかに自分仕立てのドラマを生きてきたか。「自らの信念」といえば聞こえはいいけれど、「自分だけの完全な思い込み」によって自分劇場を生きてきた。
それで幸せになった、不幸になった、達成した、失敗した、を繰り返し、「生きた」気分になっていた。夢を達成したこともあった。飛び上がるほど嬉しいこともあった。苦汁を舐めたこともあった。誰にも理解されないであろう悲しさも体験した。あれもこれも体験して、またそのドラマをまたやろうという気に「なんとなく」なれない。
というのがミドルクライシスの本質ではないかと思います。なんとなくそんな気になれないので、ひょっとするとまた猛烈な情熱が湧き上がってくるかもしれないという僅かな可能性も否定できない。
でも、やっぱり無理だ、となる。なぜなら、あんなに欲しかったものを手に入れたのに、期待したほど幸せになれなかったからだ。どう見ても楽しい状況にいたのに、どういうわけか辛かったからだ。
中年は、人生の真髄に気づいちゃったのです。この世界が自分をどうやら幸せにはしないようだ、ということに。
今まで手にしたことのない金額を稼げば、行ったことのない憧れの地に旅行に行けば、もしかしたら、やっぱり幸せがあるかもしれない。という淡い希望を捨てられない人は、捨てなければなりません。
捨てられなくてもよいけれど、どのレベルでもマトリューシュカのように悪夢は繰り返されることは何十年かの人生を正しく振り返れば確かです。
仏陀は言いました。「この世は苦である」と。若い頃はこの言葉に大きな抵抗を感じました。当然ながら、若い頃は良い経験が自分を歓迎してくれるだろうことを心底信じていましたので、そんな言葉聴きたくもないし、非道徳的な言葉のような気もしました。
しかし、中年になってみると、実にこの言葉がしっくりきます。なぜか。人間の優しさもさることながら、人間の恐ろしさもよく知っているからです。人間の心というのは、虚ろいやすく、自分を守ろうとする際には暴力的にもなります。
この心を制御できなければ、幸せになることはないと言われれば、その通りだと膝を打つでしょう。
心とは何か。私とは何か。自分が何をやっているのか。これをメタ認知して、さらに明晰に覚めなければ、本当の意味でミドルクライシスは終わらないはずです。
もしかしたら、死ぬまでミドルクライシスかもしれません。それでも、正直に生きるしかないという気がしています。本当はそれしか人生やることはなかったんだと。
ミドルクライシスの中にあっても、覚悟を決めてしまえば、安心や根底の幸せはしっかりと確立されていくので、うまい仕組みになっていると感じます。
もう大丈夫なのです。自分のお尻を引っ叩いて、高い壁を登り続けなくても。幸せって自分そのものだったじゃん。という気づきが、私の場合はどんどん濃くなっていっています。