こひうた──先ずは手始めに
はじめに
思えば、この「マガジン」だけ手着かずだった──。
おそらくのところ、いきなり「艶かしい話」を披瀝するのに躊躇いを憶えたがゆえであろう。それで何とはなしに「抛擲」せざるを得ぬ恰好となったのだと、そう自らに説いてみる。
いずれ先ず一本でも埋めよう、そう考えたのは、先の記事にて取り上げたる「都合の悪い人達」執筆に絡み、シャスタコーヴィチは「ムツェンスク郡のマクベス夫人」を抜粋ながら翻訳したからかもしれない。
そちらにて対訳を紹介しているので、是非とも併せてお読み願いたい。
とまれもう随分と恋をしてはいない。
顧みれば、およそひと廻りほど遡るあの年末を最後に、きっと「愛情とも直結しよう」恋愛が仕舞いだったのではないかしら、とふと思う──。
いきなり「艶かしげに」
慥かにそれから後も、所謂「身体の関係」を結ぶ女性は少なからずいたし、そのうちには所謂「伴侶を持つ」女性もいた。つまり不倫である。それについては、是非をも含めまた別の機会へと譲りたい。
憚られるというか凡そ良い関係とは褒め稱されぬであろう「苦学生」たる女の子との関係も、早一年近く途絶えたままである。寧ろその方が良かろうよ。
聊か話の途行きがおかしくなるが、この春先──とあるSNSで、一度か二度ばかり連絡・交渉を持った方から、こんな風に告げられたのはさて一体何ぞ?
このところ「肩や頸が重くて痛い」なるそれへと、曰く⋯⋯。
「綺麗な女性が憑いてますよ、生きている人みたいですけど。
ちょっとその、みえちゃって⋯⋯
ゾッと寒気がしたのであまり良くないかも」
などと。
心当たりはその苦学生の子くらいであろう、どう顧みても(死者が魂魄ともなれば、他にも思い当たる節はあれ)。
ただ判らないし確信なぞ抱けない。
それで特徴なり何なりを訊き出そうと試みるも、よほど寒気が酷かったのか、後は「なしの礫」で「ぷつり」と連絡も途絶えてしまう。
僕はその手の話を巡っては懐疑的とはいえど、崇祖の因縁絡みをも含め過去に様々な「不思議体験」へと遭遇しているゆえか、まるで「あり得ない」とは思えずにいる。とまれ何かしら僕へと執着をしているとすれば、おそらくのところ件の苦学生の子に相違あるまい。
「生きす霊」か──なさげでいてあり得そうな話
今年の大河ドラマが描く時代ではないが、源氏の「六條御息所」など筆頭に、俗にとある筋では「生きす霊」ほど怖いものはないという。
どうも今年へと入りてこの方、聊か「調子も悪しき」はそれゆえか。
なれど僕の場合、例え具合が良くなかろうと何であろうと「平気の平左」なのか、時に「ゾクッ」とはしても抛擲をしたままである。やがては思いが枯れて(離れて)くれるなれば、調子の悪さもいつしか恢復へと向かうであろう。否、そんな呑気な話は構わないから医者へ行けと言われたならそれまで、ではあるがと苦笑を浮かべつ。
閑話休題──。
結局、仄めかし程度ではあれ「艶かしさ」は着いて離れない。ということで話を切り替えようか。
大河ドラマ絡みではなけれど⋯⋯下手の横好きながら僕は和歌と漢詩を嗜む。
漢詩で恋情を詠むなどほとんどなけれど、和歌に限っては結構な数の「恋歌」を詠んできた。尤も、物理媒体装置つまり筐体のクラッシュなどにより、数百首ほどが儚くも呆気なく泡と消えてしまったが。
「こひうた」二首
いずれにせよ、如何にか手許に残りしうちから、とまれ二首ほど披瀝しよう。何せもう何年も恋をしていないゆえ、最近は恋歌も詠まず、いずれも十二年は時を経るそれなれば、僅かであれ恥ずかしさに気後れはすれど、敢えて語弊をも顧みずなれば、謂わば「蛮勇」のようなるものと、そう笑い飛ばすこととしよう。
まず──。
ぬわたまの 闇にかきろふ 忘れ路の 御髪さやけく 匂いぬるかな
往時は一時的に勤め人へと戻っていたのだが、勤務先の、部署は異なれど仲の良い子がいた。
愛らしくも「大和撫子」風情を湛える子で、挙措の一つひとつですら愛おしく、挙句には年甲斐もなく⋯⋯謂わば「一目惚れ」に近しかったやに記憶する。
二十歳ほど齢離れたるとて未だ若いつもりの僕なれば──。
傍目も振らず猛アタックをかけ、これは上々「良かれ」との感触を得たは間違いない。されど今から思えば「詰めが甘かった」
彼女は結局のところ逡巡をし、悩みに悩んで挙句、下す答えは「ノン」──。
否、直截的に退けられたのではなく、また「お察しください」というのでもなく、要するところ「答えが出せない」という懊悩が結果だった。
どうやらその頃には、早くも僕には「執着」なる感情が失せかけていたのやもしれぬ、なればとて「男女としてはお仕舞いにしよう」とばかりに諦めたのではなかろうか、と振り返る。
果たしてそれで良かったのか否か、実のところ未だに判らない。俗諺にて「急いては事をし損じる」とも謂うが、さて。
自明なのは僕の蹉跌という事実だけであろう、おそらくのところは。
この「歌」にはさり気なく彼女の名前を潜ませている。綺麗な黒髪が透き通るように白き柔肌を惹き立て、それはまさに「匂う」かのようであった。
次なる一首をば──。
戀ならね 思はね忘る 身なれはや そもあはれとて 吾妻問はねそ
嘗て詠んだそれに、このところの心境を「オーヴァーラップ」させつも、品詞と助詞へと僅かに手を加える。それだけで、過去の熱情が枯れにし今をそのまま代弁するからこそ実に面白き。吾妻は東へと掛けたる「詞遊び」である。上の句「五つ」、それに下の句「七つ」(いずれも結句)はそのまま。
僅かな詠み替えで、まるで極北を表すのであるから和歌は已められない。
尤も、それは措いても──。
「枯れにし今」とはいえ、素敵な女性がいたならすぐさま「恋愛モード」へスウィッチ可能な僕であるは、いやさソイツ、ご愛嬌ということで。
仰けはこの辺りで⋯⋯以降は時に一般論的なる話題をも織り交ぜ、続けて行こうかなどと思う。
※尚、和歌に関しては濁点や半濁点、促音拗音は一切遣わない。いずれも往時は存在しなかったがゆえである。句読点に関しても、長文の漢文以外には用いない(附言すれば、往時は句読点の別はなく、しかも多くは今日の所謂「中黒」あるいは「◯印」であったは、ほんの細やかなトリヴィア的ネタながらお知らせしたく)。
※また「艶かしい」表現を巡っても、例えば直截的な「性描写」は控えようかと考えている。おそらくのところ、斯く描写は、殊に「女性」は嫌悪感を抱かれる可能性は大きかろう──否、所謂「LGBTQ+and so on」なる時代でもあり、生物的性差問わず、際どい「性描写」には嫌悪感を憶えられる方も少なくはあるまい。ゆえにそうならぬよう工夫していくつもりである。