「去んぬる年が悔いぞ残さじ」──'24s展望
気づけばいつかしらか当noteも、ふた月近くも抛擲をして挙句、そうよ、ある意味にては一昨年よりの宿願たる「特集配信」へと手を着けるのでさえ能わずなりし23年も過ぎてしまい、年明けより既に二週間になんなんとする時をさえも費やす始末。
まさしく「やれやれ」である。
結局のところ、ダブル・アニヴァーサリーには間に合わなかったラフマニノフ特集ではあるが、彼にとっては極めて象徴的なる意味を与えられし三月をフィナーレと看做し、それまでに四度ほどにて漸く制作・配信の目処を立てた次第。悔いは残すも、然りとて一昨年の「1935〜1945 ── 戦前戦中日本の管弦楽作品」のように、 特集として企図しながら水泡に、などという愚は繰り返すまいと只管誓うばかり。
いずれ本稿では、そんなラフマニノフ特集についてご紹介しよう。
特集「Die Sinhonien komposistung Rachmaninow」 を巡り
去んぬる23年は、ラフマニノフ生誕150周年にして没後70周年のダブル・アニヴァーサリーであった。初夏の頃には、ツイッター(現エックス)にて特集配信を組みたいなどと、そう呟いていたやに記憶する。尤も、それから時を措かずして気忙しくなり、更には秋も酣かという声を耳にする季節にはフィジカル、メンタル両面にて危機を迎える始末。ついには残すところ一日のみ、つまりは大晦(おおつごもり)に突貫工事を試みるもテクニカルな問題が壁として立ちはだかり、諸々エクスキューズなり開き直りなり、そんな術へと思い巡らせては、先に陳ぶる通り「彼」にとっては因縁深き三月までに全てを配信するという、ある種「横紙破り」な手の内にて「悔いぞ残さじ」と極め込んだという訳である。
とまれ以下に、プランなどを書き認めよう。
当初からそう目論んでいたのではあるが、特集は「交響楽作家」としての彼に焦点を絞り、協奏曲と交響曲という管弦楽作品にライトを照射する恰好で進めるつもり。
初回は「青春と野望 ── 残酷篇」と銘打ち、彼が最初にOpusつまり作品番号を与えたピアノ協奏曲第一番嬰ヘ短調作品1、 そしてまさに残酷篇、 その初演が彼を抑鬱状態にまで追い遣る大失敗へと帰す交響曲第一番ニ短調作品13、この二作品を取り上げる。
以降、第二回は復活の狼煙を上げつ、彼をスターダムへの途行きへと導くピアノ協奏曲第二番ハ短調と、これも名作・代表作として広く膾炙される交響曲第二番ホ短調、第三回はピアノ協奏曲第三番と交響曲第三番を、最終回にはピアノ協奏曲第四番に、やはり名作の誉れ高きパガニーニの主題による狂詩曲、そして掉尾を飾るは最後の作品、交響的舞曲⋯⋯ざっとこのような構図を夢見つ描いている。
各回前半は、協奏曲などピアノと管弦楽のための作品をユジャ・ワンの独奏、 ドゥダメル&ロスアンジェルス・フィルハーモニックのプレイでお送りする。 交響曲はいずれも、 若き巨匠たるネゼ=セガン&フィラデルフィア管弦楽団、加えて奇才的ピアニスト・指揮者として有名を馳せるプレトニョーフ&ロシア・ナショナル管弦楽団の二本立てにて披瀝する。
ネゼ=セガン&フィラデルフィア管は、諸兄姉もご存知「フィラデルフィア・サウンド」を醸すブロードキャスティング・スタイル(俗にストコフスキ・シフトとも)。ドゥダメル&ロスアンジェルス・フィル、プレトニョーフ&ロシア・ナショナル管は、本来的にスタンダードたる対向配置(両翼配置)。それにより同作二曲連続であれ、サウンド的に飽きのないプログラミングとなるのではないかしら? などと自負をする。
今のところは、上記構成にて考慮しているものの、あるいはもしやしたら合唱交響曲「鐘」をも紹介する可能性を留保・担保している。なぜなら同曲はラフマニノフ自身が「傑作」と密かに賛じていたから。いわば「番外篇」というところか。また、こちらも未だ迷うところなどありながら、 初回にはボーナス・トラックが如くに、 彼の若書きたる「交響的楽章ニ短調」(ユース・シンフォニー)とチャイコフスキーの交響詩(幻想曲)「運命」を結尾に紹介するつもりでさえいるが、そうなるか否かは、蓋を開けてみるまでは判らない。兎も角も「お楽しみあれ」とだけ陳べるとしよう。
それにても 悩み尽きせぬ 我が身かな 嘗て糊をし 生業思へば⋯⋯
ともあれ、今回は七、八年振りに本格的なる動画編集作業に携わるなど、愉悦のひと時に身を任す僥倖に与るも、何とはなしに「忸怩たる」思いをすら懐胎しているというのが正直なところで──「忸怩たる」などと表現すると、聊か語弊を招くやもしれぬが、三十路辺りまで舞台に立ち、弾き吹き奏でまた唱い、棒を振りつノートを調え記す日もあれば、スタジオに篭ってはディレクティングに汗滲ませると⋯⋯そんな過ぎし日を知る身なればこそ、違法脱法は慎み、真っ当に遵法意識を以て臨みたい。今回のラフマニノフ特集は、大凡の絵図面を観るところまで至りしゆえ、そのまま生一本宜しく通すつもりながら、「今後は如何にせむかや?」なる心境である。
所謂ライツの許容する範囲を見据えては、トークを要諦枢要に据えるが本懐たるべきであろう。実のところ、具現化しつつあるブルックナー生誕200周年記念特集などは、そのようなスタイルでと企図してはいる。
「新しい玩具」を見つけたばかりなれば、好むところの学習・実験を兼ねて肚を決めたい。まあよ、そんなこんなでラフマニノフ特集に限れば、片山杜秀氏の名物プログラム「迷宮の音楽」然たる風情でお届けしようか。
さてや向後、かくあらむべしかや?
配信スタイルを巡っては、 石橋を壊して猶も逡巡するとしよう。結論を如何なる形で得るか⋯⋯それさえ判らぬも、さっぱりとした心持ちで楽しみたいものである。
そうなると、今年アニヴァーサリーを迎える巨人達はどのような顔ぶれかが気になる。
僕が好む、あるいは気になる作曲家を列挙してみよう。
ブルックナーに関しては、 既に昨秋から決めてある。彼を巡って僕は、 ミサやモテトゥスなど宗教曲の大家と看做している。 なれど世間は専ら交響曲に着目している。然すれば「その線で行こうぞよ」と、早くもリストを組んでいるのは先にも触れし如き。
「Noch ein "Nr. 9 D moll" ── Wenn Sie noch einen halben! Tag Zeit haben......」 (もう一つの「第九ニ短調」 ── 残すところ半日ばかりの猶予さえあれば!⋯⋯ )なるタイトルにて、 未完に終えし交響曲第九番ニ短調はフィナーレ(絶筆の第四楽章)に脚光を浴びせよう。
夢は更に拡がる。ざっと見廻らして不意に思うのは、 ボヘミアやモラヴィア、ポルツカ(ポーランド)が誇る作曲家の多さ。彼の地へは幾度か足を運んだが、実に素敵な貌を有する。所謂「国民性」はかなり異なれど、 いずれの国・地域ともにWW IIの惨劇 ── その渦中に破壊し尽くされた街並みを、戦後へと至っては元の如くに復元をするという、 実に誇り高き人々の集まりであり、 殊にボヘミア延いてはチェコの首府・プラハの美しさは類例を見ないほどである。 そんな両国の作曲家達を巡っては、 差し詰め 「čeština i polština」 なるタイトルにてシリーズ物として取り上げようか。 取り分けドヴォジャークに関しては多くの時間を割くつもりでいる。そう、つい最近のことだが、チェコのピリオド・オーケストラ「ムジカ・フロレア」 (シェフは創設者のマレク ・ シュトリンツル)による、 22年ライヴ録音になる交響曲第七番ニ短調作品70の音源を入手したので、 彼らが04年にセッション収録した同曲との聴き比べは必ずや実現したい(とは言いつつ、例のライツ絡みで躊躇いがちではあるが)。
イングランドの作曲家も目白押し。彼らの場合は「Nobles gentlemen's」とでもしよう。こちらもシリーズとして扱いたい。その他、リストの彼らは特集とまでは言わずとも、折節チョイスしていくつもりである。 そうよさ、 今年から二年をかけて 「 1935〜1945 ── 戦前戦中日本の管弦楽作品 」 を手掛けてもよかろうよ。
自らでさえ気づかぬ間に、こうしてモティヴェーションは膨らんでいく。
※本稿執筆時は未だ完成ならざるラフマニノフ特集初回ながら、寄稿時には全ての作業を終えているはず。依って以下に、 You Tubeへの当該動画リンクを貼付するとしよう。ごきげんよう。
※1月14日追記:いやさ凝り性という気質も厄介者──自らの時間をほぼ割いては動画編集に勤しむが、集め作成したファイルが未明時に115 超え……最後の一曲には未着手な上に加えて解説原稿も。参考文献も二冊残しゆえ今日は無理。今暫くお待ちを。
※1月24日追記 :ラフマニノフのピアノ協奏曲第一番嬰ヘ短調の1891年初稿が収められたアルバムを入手。こちらも紹介をしたいと思いつ、合唱交響曲「鐘」も取り上げるが良いとの考えに至り、本篇5回、番外篇1回、都合6タイトルにて最終プランをまとめる。加えて、ネゼ=セガンが「鐘」を収録していないこともあり、プレトニョフ以外の交響曲についてはセガン(一番、交響的舞曲)、やはり若手実力派であるジョン・ウィルソン&シンフォニア・オブ・ロンドン(二番、三番)、そして第三回にて「鐘」を取り上げつ、こちらはは若き日のアシュケナージ&ロイヤル・コンセルトヘボウ盤にてお送りする肚を決める。乞うご期待。