冬木透──Requiescat in Pace.Amen.
冬木透と管弦楽作法──
とまれ⋯⋯まずは黙禱。
大晦の忙しなき遑に彼を25thアニヴァーサリーとてリスティングしたが、その時点では知り得なかったのである。いずれ年も改まり、noteの「おすすめ記事」などを読み流していた折、冬木透=蒔田尚昊(本名)が昨年末に帰天するをやっと知るに到る、と⋯⋯召されずなれば、この春先にも齢九十を迎えるはずであった。
以下、陳べるに当たり前提をば示しておきたい。僕は彼の、取り分け宗教作品を主宗とせる「印刷譜」こそ少なからず目にし遣いはすれど、所謂「ウルトラ・シリーズ」のスコアは未見のままである。その上で矜持の一端とて「楽譜を読める人、聴音→筆耕に何ら困難を憶えぬ人、まっさらな「紙」と鉛筆など筆記具さえあれば、脳裏に経巡るノート(音符)を認めるに造作もなき人」たる自身なりしを表明しつ、進めていきたい。
リスティング時点にては「気が向けば」としていた冬木であるが、帰天(彼はキリスト者なれば斯く表現したい)を知る以上は取り上げるべきであろう。なればとて特撮作品が不朽の銘品「ウルトラ・セブン」及び冬木特撮音楽が代名詞=「ワンダバ」つまり「帰ってきたウルトラマン」より台本上「M3」は同一動機の発展形になる「B」部分へと割り振られたるそれらを、いずれもオリジナル・サウンド・トラックにて改めて聴いては驚いたのである。曰く──。
我が「理想とせるオーケストラ配置」を原則論として「徹底している!」と。
僕が振り屋をせし折など、時代ゆえか理解を得られず断念した配置を、60年代の冬木は「当たり前」が如くに採用している。一部に例外はあれ(ポップス的ユニット、あるいはビッグバンドの延長線上に発達をみる「歌謡番組的イージーリスニング風オーケストラル・スタイル」を採る音楽、ウルトラセブン・オープニング、テクニカル上における──主にソヴィエト・ロシアが最新動向を確認するための実験的手法などを除外し)、原理原則は「対向配置」を徹底、変化の揺れも少なき木管セクションは措いて、金管セクションはホルンを上手(とはいえ楽曲によって下手に置くは、アンサンブル上における心配りが結果であろう)に据え、トランペット以下についても上手側より始まり下手=最左翼にテューバ、なるを基本とする。
「現場の空気」と同調圧的「時代が要請」──乖離
まさに僕が理想とせる「楽器配置」=「器楽書式が一端」である。尚、ティンパニを上手に、一方でバスドラムは下手に(尤も彼我の位置関係は時に逆転をみる)、というのも良き意味で「肌が粟立つ」心地であった。ただ、ピアノが位置関係に限れば、時に聊か意見は異なれど、下手上手自在なるはオーケストラル・バランスを慮ればこれも流石であると唸るよりない。
彼は満州が首府たる新京生まれであり、しかも敗戦を契機に十歳頃には母が故地たる広島へと移る。新京におけるオーケストラ体験は、新京音楽団(新京交響楽団)の活動史をも顧慮すれば「冬木透=尚昊少年」などニアミスさえ覚束ぬであろう。
仮にハルビンへと遊ぶ機があったなれば、その折に耳にしたであろうそれが原初体験である蓋然性は、指摘しておいてもよかろうかしら。
そんな彼は、新制大学以降のエリザベト短期大学にて作曲科宗教音楽専攻課程にて基礎を感得・血肉とし、以降、東京放送(現TBS)へ勤務しつつも国立音楽大学は作曲科にて猶も研鑽を積む。ちなみに斯く時代におけるオーケストラ配置は、既にストコフスキー・シフト(並行配置)が「当たり前」であった。
とはいえ、おそらく(僕も経験上からして容易く理解に与り適うが)、往時のスタジオ・ワーケーションにてや「僕的理想たる管弦楽配置」は、未だ駆逐されずであったのではあるまいか。
彼がメディアを中心とする表現手法を、斯くなるイディオムにて徹底したるは「あるいは偶然」やもしれぬ。しかしながら、少なくとも「バロック期」宗教音楽をベースに、まさしく「スコアを読むが空気を吸うに値する」ほど当たり前たる彼なればこそ、クラシカル・ジャンルにおいては「並行配置」席捲を看る時代にあってさえも、本来的に「理想的なる」楽器配置=器楽書式を弁えつ自らの音楽を設計・構築したると思えば、冬木透は「掛け値なし」の「天才」である。
近々、所謂「ウルトラ・シリーズ」作品を中核に、冬木透特集を組もう。