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失っていく情緒と知的センス

 こんにちは。毎度おなじみ頭のおかしいおばさんだ。もうね、私は基本的に変なおばさん。開き直っている。

 さて、どうやら人間は何度も同じことをしては軌道修正する生き物のようだ。
 いまはスマホで検索すれば答えが出ると思っていたり、AIのアルゴリズムに使われ、自分で物事の体感や実感することを忘れ、情報に振り回され実感を見失う面を私は感じている。つまり私は劣化していっている。
 結局は誰が言うかによるのだろう。よって多変数函数論の分野における超難題「三大問題」を解決した数学者の岡潔(おか きよし)さんの著書『春宵十話しゅんしょうじゅうわ』よりお知恵を拝借する。岡は、はじがきを「人の中心は情緒である。」と始める。

 私はネタバレを希望しない、かつ切り取りも岡潔の人間力とぶっ飛んだ行動の世界観を崩してしまう。私は文章力が無くどこまで載せていいのか分からず悔しいが、一部を引用する。

 室内で本を読むとき、電燈の光があまりに暗いと、どの本を読んでもはっきりわからないが、その光に相当するものを智力と呼ぶ。この智力の光がどうも最近の学生は暗いように思う。わかったかわからないかもはっきりしないような暗さで、ともかくひどく光がうすくなった。小学校で道義を教えるのを忘れ、高等学校では理性を入れるのを忘れているのだから、うすくなるのは当然といえるが、いったいどのくらいか計ってみた。ノーマルな智力をもっておればただちにできるはずのことに要する時間を私たちの世代といまの学生でくらべ、その逆数をとってみたわけである。

岡潔,春宵十話,情操と智力の光

 この後、岡は「ただちに」を計るため友人と連句の応じに掛かる時間をストップウォッチで計る。岡世代が10秒に対し、学生は3日。何度やり直しても結果は同じで、学生は二万七千分の一の智力であった。

 これはただちにわかるはずの自家撞着が、人に指摘されなくてはわからないという程度の暗さである。手短にいうと、知的センスというものがまるでないのだ。このままいけば、人に指摘されてもわからないということになりはしないかと恐れる。

岡潔,春宵十話,情操と智力の光

 岡のはじがきには次の文がある。

近ごろのこのくにのありさまがひどく心配になって、とうてい話しかけられずにはいられなくなったからである。

岡潔,春宵十話

 岡が心配していたように私は情緒を磨けてはいない、かつ知的センスがない人間に仕上がっている。私は自分の自己矛盾も認める。結論ありきの話と現場感覚はいつだって違う。現場を見ないと問題のない物事にも振り回される。このまま情緒と知的センスを失うのか、それはいやだ。
 中年から今更ではあるが、私は情緒と知的センスをゆっくり磨きたい。

(了)

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