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コーヒーとNY
今回はヨガ留学とは関係ない徒然日記です。
2025年は久々にNYに行きたいななんて考えていたら、NY学生時代を思い出して書きたくなりました。
ヨガ留学情報を求めて見に来てくださった方は割愛ください。
なんとなく1か月の支出を割り出してみたところ、カフェ代が意外に多くて驚いた。
「ママ、カフェいこう?」と気軽に提案されるくらい4歳の娘にとっても馴染みのある場所になってしまっている。
飲むのは大体カフェラテかチャイラテ。
15年ほど前、私は突然ブラックコーヒーが飲めない体質になった。いわゆるカフェイン中毒の症状で、その時の体調によっては手が震え、動悸まで起きることがあった。
以来避けてきたコーヒー。しかし、最近ひょんなことから飲む機会があり、その美味しさに驚いて、15年ぶりに常飲するようになった。
カフェでコーヒーを注文する時によくある出来事を思い出す。
もう20年前(年月の経過にひいた笑)、大学生活をまるごとNYで過ごした。というより、過ごさせてもらった。
親になった今思うことは山ほどあるが、それはさておき。
あの時、私は大阪の田舎街から離れ、大都会ニューヨークで、多種多様な人々と出会い、文化に触れ、毎日が刺激的だった。
ニューヨークに着いた弱冠18歳の私は、小さな自分を痛感し、その土地が放つ圧倒的なエネルギーに恐れおののいた。
ホームレスから上流まで、ありとあらゆる人々が行き交う。その中でも、私が特に憧れたのは、コーヒー片手にマンハッタンを颯爽と闊歩する大人たちだった。
彼女たちはいつも何かに急いでいて、話す言葉も歩くスピードも速い。その片手には必ずスタバのカップ、しかも決まって特大のベンティカップ。背筋を伸ばして着飾った身なりに足元は通勤スニーカー。足早に行き交うその姿が、私にとってはとてもカッコよく、憧れの象徴だった。
映画のワンシーンを切り取ったようなその光景に、私は無意識に自分を重ね合わせていた。18歳の私は、何も持っていなかったけれど、せめて見た目だけでもその大人たちに近づきたかったのかもしれない。
通学前にベンティサイズのコーヒーを買い、それを片手に授業を受ける。その時の私は、勉強についていけず、悩みも多く、授業が終わるたびに孤独を感じていた。お守り代わりに買ったコーヒーが、私にとっての小さな支えだった。
そのうち、コーヒーが大好きになり、毎日のように飲んだ結果、私はカフェイン中毒になった。今振り返れば、あれはおそらく、孤独感や不安からくる一種の依存だったのだろう。
馴染みがなかったコーヒーを飲んで、精一杯背伸びして。
あれから20年が経った。
再びコーヒーを楽しめるようになり、カフェでそれを飲む度に、あの頃のほろ苦い思い出が蘇る。あの時の私は、こんな風に温かい気持ちでコーヒーを楽しむ日が来るなんて、想像すらしていなかっただろう。
時が流れるのは早い。環境も立場もガラッと変わったけれど、あの時の経験は私の血肉となっているのは変わらない。
一杯のコーヒーで思い出すことがあるのも人生の醍醐味だと、目の前でニコニコ笑う小さな娘を眺めながら、また一口体に流し込む。
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