発達特性で迷惑をかけてる人への言い訳
以下の文章は深夜に書き殴った、単なる言い訳です。反省がたりてません。
でも反省しても直らないのも自分なのです。それに甘えてはいけませんが。
発達について説明して下さいといわれて、それは自分の人生を説明することになるよなって思いました。自分でもよく理解できてないのです。
3000字を超える長文なので、ChatGPTによる要約をつけました。100字です。全くしっくりいかないですけど、読んでる暇がない人が殆どだと思うので、こちらで納得してもらえればと思います。
要約
発達障害は、言葉や行動の伝達が難しく、コミュニケーションや人間関係に苦労する特性を持ちます。発達障害と性別違和を抱え、ネットでのやり取りに苦しむ一方、女子会のような自由な会話は楽しめます。自分の特性を理解し受け入れてくれる人とだけ関わりたいと感じています。
本文
人間関係がうまくいかない。とくに男の子と。とくにネットでのやりとりと
自分の発する言葉が、相手には届かない、届いたとしても受け取ってもらえないと気づいたのは、物心着いた頃だとおもう。発する言葉が多すぎる、脈絡が見えない、さっき言ってた事と違うことをいう、そういう具体的な違和感を指摘してくれる友をもったのはごく最近のことだとおもう。
小さな頃には発達障害なんて言葉はなかった。たんなるおしゃべりなこどもだった。それはかわいげのあるこどもとして微笑ましくあつかわれたけど、とうの本人は相当ないじめで苦しんだ。でも中学、高校となり、2度の転校をへてもそのいじめが続いたことから、原因は自分にあることに気がついた。でもどうしようもなかった。どうしたらいいのかわからなかった。でもそんなおしゃべりでいじめられる自分を影でささえてくれるのはいつもなぜか女の子だった。
本を読んだり、ニュースをみたりするともやもやする。ひらめく、ここで人は熟考するのだろうけど、自分はそのもやもやとても口にだしたくなる。出したあともそこから、怒濤のように連想ゲームが頭のなかで動き出す、それってこういうこと、こういうことということは、あれとも関連ある?人には脈絡のないおしゃべりが人を困惑させる。
美大にいき、そのあと写真の専門学校で学んだころ、現代美術をやるようになってから、哲学や現代思想をまなんだ。そこにはエクリチュールとパロールと言う言葉がある。書き言葉と話言葉のことだけど、言葉を発したい、連想ゲームをしたいその欲望を、書き言葉にする訓練をしてみたけど、言葉の限界を感じて、グラフィックデザインに進むことになる。でもコピーライティングは好きで、スクールにかよったら最優秀を取ってしまった。たぶん自分はデザインより言葉を扱う仕事のほうが向いてるんだろうなと思いながら、散文しかかけない自分ももどかしさを感じてしまう。
こどもができた、大きくなった。お財布からお金を盗んでゲームを買った。その事にどうして指導をしていいかわからず、児童相談所にこどもといった。こどもは何も告げられず、別室にいった、その後、テストの結果を渡された。発達障害だった。言語野が異常に発達してるのに、考えてることを手先にうつすことが苦手であると言われた。その為、黒板を書き写すことができないだろうと。運動場が見える席だと気になって仕方ないだろうから、廊下側の席にしてもらうように先生に伝えてくださいと言われた。
発達障害は遺伝性のもの。この子の発達はすなわちわたしから来てるのは明らかだった。自分は主治医にこんな結果がでたので、わたしも検査してほしいといったけど、大人の発達障害はまだよくわかってないし、大人は人間関係のやりとりでライフハック的に解決方法を学んでるものだから心配しないで良いですよって言われた。
たしかにデザインにはきまったワークフローがあり、間違いがないように伝える業界用語がある、おしゃべりしようが、その初校、再校、責了みたいな言葉を間違えずに伝えれば仕事はまわる。一般の会社のように無駄な会議もなく、会議らしいものといえばプレゼンテーションなので、むしろその場では、自分の人前でしゃべれる性質はむしろ前向き評価した。あの人のプレゼンはうまいとまで、社内外から評価されて、ちょっといい気になってた。
時はたち、こどもは発達障害を抱えつつも、その知的好奇心をうまく活用し、早稲田に予備校もいかずに合格した。しかし就活でESがかけず難航し、社会コミュニケーションがうまくいかず、26歳のいまも転職活動で悩んでる。
自分も離婚し、自分の棚卸しをしたときに、自分のなかの性別違和に気付く。それを深掘りしていくとその底辺に発達障害があるように思えてしまった。
コロナになりリモートになると、リモート特有のテキストコミュニケーションが始まる。そのときの発言していいタイミングがわからない。あいての発する言葉に連想ゲームがはじまり、自分としてはブレストしてるつもりが、あいてには単なるうるさい人ととられてしまう。数多くのオンライン会議で失敗し、結局、ファシリテーターと2人だけの部屋をつくってもらい、伝達してもらう形になることが多い、言ってることはわかる、場を盛り上げようとしてるのはわかる。だけどタイミングの問題なんだよ。そういわれても日本特有なのかどうなのか、わからないけど、わからないものはわからない。
医師に性別違和のことを告げ、専門医からも診断書をもらったことを伝え、もう一度発達障害の確定診断をしてもらうことをお願いする。3日間かけて心理テストを受けた。結果、双極性障害の藥で、若干の知能低下があるのは誤差として、こどもと同じ、言語、知覚が発達しているけど、短期記憶と、処理速度が極端に低かった。結論としてADHD(多動性/衝動性)であり、ASD(自閉症スペクトラム)は見当たらないという内容だった(通常ADHDとASDは合併することが多い)
性別違和と発達障害の合併は良く聴かれていて治験もはじまってるが、性別違和をメンタル的に直す(転向療法)はできないことがすでにわかっており、体をあわせていくホルモン療法をはじめていた。(将来の性別適合手術を視野にいれて)一方、発達障害と双極性障害との合併もよくしられていて、そこにはイジメなどの複雑性PTSDが関係するとの医師の見立てだった。
発達障害を緩和する治療をさがしたが、ほとんどなくあるとすれば都立烏山病院ぐらいだったのだけど、医師は余り意味ないよとのこと。とりあえずアトモキセチンといわれるADHD向けの藥を飲み始めたのだけど、この副作用が強い、飲み忘れると後頭部が締め付けられたように痛くなる。うっかり終電をのがしたときには本当に泣きそうだった(鎮痛剤一箱のんだ)
結果みつかったのは就労支援事業所での訓練だけだったのだけど、就労をゴールにしないといけないところ、事業所でのトイレの問題でつまづき、なんども相談するも、結果として通所することはなかった。
いまはオープン・ダイアローグという心理療法を不定期におこない、発達障害でこまったことを対話の場で共有し、その解決方法をみんなで探るということぐらいしかできていない。
オンラインコミュニティでの失敗は、数多いので、わたしには向いてないんだろうなっておもう。
一方、女子会のような止めどもなく会話が連想ゲームのようにとまらない空間はとても楽しく、まったく違和感なくおしゃべりができるのはなぜと思う。
発達とは自分であり、自分とは発達なんだ。発達であるからこそ自分なんだ。それを受け入れること、それを受け入れてくれる人とだけ付き合うしかない段階まで来てるような気がする。
長いプロットもないテキストを書くのは得意だけど、それに意味があるとは思えず、ChatGPTに100文字で要約してもらって、本文はだれもよまないnoteに残すこととする。