花火を上げてわかった3つのこと。
いきなりだが、今回の経験を通して「花火」という事柄を分解してみたくなったので3つに分解してみる。
いつも通り見てたら、ただの花火として消化していたと思うが、今回の花火の余韻の行き着く先は「胃」ではなかった。
胸の底に届くいままで味わったことのない経験。
自分の好きなバンドの好きな曲を生ライブで観たときのあの感動に似てる。
ちなみに僕はミスチルの「終わりなき旅」をビッグスワンで聴いたときに号泣した。
そんな名もなき気持ちを言語化してみる。
①花火の音
まず一番、やっぱりこれだね……と思ったのは「音」だ。
もちろん花火と言えばビジュアルがぶっちぎり大先行の100人中90人が支持すると思う。
しかし、今回は音が凄かった。
なんだかめっきり静かになってしまった街の隅々の片隅にまで、その音が響き渡ったような。
すっかり血液が行き渡らなくなってしまった指先や足先に刺激を入れて、血液を流して温もりをつくりだすかのようだった。
または「忘れないでねー!!」という花火と花火師さんの雄叫びにも聞こえた。
今回の件を通して、花火はそのビジュアルだけではなく、爆裂音も大きな構成要素のひとつだと確信。
②協賛の読み上げ
あれも毎年なら、なんだか花火と花火のあいだにある「邪魔者」みたいな印象があったかもしれない。
盛り上がった気持ちに水を注ぐような冷徹無比なアナウンス。
ただ、今回はその協賛読み上げにも何か愛おしさがあった。
「空腹は最高のスパイス」と言うけどその通りで、あの無機質なアナウンスがあいだに挟まることで飢えが高まるのだ。
ステーキの付け合わせみたいな。
スイカにふる塩みたいな。
来年からは協賛のアナウンスにしっかりと耳を傾けてみようと思う。
③終わったあとの余韻
毎年だったら、そんな余韻に浸ることもなく「あー今年も終わった、終わった」とせいせいしたものだ。
しかし今年は違った。
最後の金一色の花火が終わってしばらくすると、見物に来てくれた方々が拍手をしてくれた。
暗くてよくわからなかったけど、周囲から拍手の音がするから、かなりたくさんの人がいたみたい。
「ありがとー」の声も聞こえたなぁ。
そのときの雰囲気がなんとも温かくて涙腺が崩壊しそうになった。
仲間と一緒に興奮する。
最高の瞬間だった。
わかったこと
花火は観るもんじゃない。
上げるもんだ。
四尺玉で有名な長岡市片貝では企業協賛だけではなく、個人や家族単位で花火を上げる習慣がある。
その理由がなんとなくわかった。
自分たちの想いが詰まった花火が上がった瞬間の感動たるや……。
花火はその光を楽しむだけじゃない。
爆発音を楽しみ、協賛の読み上げに耳を傾け、そして終わった後の余韻を胸に家に帰る。
この一連の流れが「花火」なのだ。
そんなことを感じた令和2年の花火が終わった。
次はどうする???