【映画感想】ボヘミアン・ラプソディ
今さらだけど、「ボヘミアン・ラプソディ」を鑑賞。
もちろん「クイーン」は知っていたし、曲も有名なものは聴いたことがある。けれど詳しくは知らないし、ファンでもない。
だから特に興味はなかったけれど、
観始めたら、このフレディ・マーキュリーという人の魅力に捕まってしまった。
「フレディ・マーキュリー」が好きな人からすれば、その人の半生の物語はそれ自体が面白く興味あるものだと思う。
けれど、私は彼の生い立ちも、人生も、どんな人かも全く知らなかった。
映画の中で彼は、自分に自信があり、自分の才能を信じているんだけれど、どこか自信がなさそうなオドオドとした表情も浮かべる。
その表情が逆に彼の魅力となっている。
音楽はきっと彼のゆるぎない自信の部分だが、
家族や自分のセクシュアリティ、アイデンティティの部分をずっと自信を持てずにいるようだった。
彼は成功するより前に「生涯の恋人」と自身が呼ぶメアリーと出会っている。
けれど、やがてメアリーに告白する。
「僕はバイセクシャルだと思う。」
「違うわ。あなたはゲイよ。」
お恥ずかしながら、私はこういったセクシュアリティに関して知識が乏しかったのでこのシーンを瞬時にきちんと理解できなかった。この告白を境にメアリーは一旦フレディから離れてしまう。そして、そのことでフレディは孤独に追い込まれていく。誰も自分から離れていってしまうように感じ、彼の成功に乗じて甘い蜜を吸おうとする輩にいいように扱われ、益々孤独になっていく。
バイセクシャルというのは同性異性の両方を性的対象と見ているそうで、ゲイとは同性を性的対象として見ている、ということだそう。
つまり、先のシーンでメアリーは「あなたは私のことを恋愛対象として見ていないのよ」ということを言ったことになる。メアリーからしたら、単なるフレディの浮気、ではなかったということ。
2人は生涯親友として過ごす大事な存在らしいけれど、
自分は相手を「恋愛対象」として見ているのに、相手からしたらそうではない、と自分が感じているのは辛いだろうな、と思う。
一方で、彼の「最後で最高の恋人」と言われているらしいジムとは出会いのシーンで「君には友達が必要だ」と言われている。
そして、きっと生涯大切な友達となったのだろうと思う。
クイーンの楽曲やその制作過程ももちろん興味深かったけれど、
自分は一体何者なんだろう、とか本当に必要とされているんだろうか、とかそういう人間らしい悩みや孤独が随所にあって、
それがこの映画の魅力だな、と私は思った。
「友情」や「恋愛感情」って目に見えるものではないから、
結局自分自身が強く、信じなくては関係が築けない。
子どもの頃は「誰かの一番になりたい」とよく思っていた。
誰か、私を一番に想ってくれる人。
きっと、それは恋人なんだろう、と思っていた。
だから、恋人には「一番」を求め続けた。
友達にはそれを求められない、と思っていた。うざいやつ、だと思われたくないから。友達が私じゃない他の誰かを選んでも平気なフリをし続けた。
でも、恋人も決して私を「一番」にはしてくれないことが段々と分かった。
人間は結局孤独…なんてことが言いたいわけじゃない。
「一番」になれなかったとしても、自分が相手を「一番」に想って大切にすればいいんだってこと。
相手は自分を「親友」とは思っていないかもしれない。
本当は相手が一番つらい時に頼りにしてくれる存在に自分はなりたいと思っている。けれど、本当に辛い時に頼りにしてくれなかったとしても、
相手の辛い時の十分の一でも百分の一でもいいから、相手の助けの一部になりたいと自分が願って行動すること。
それが大事だなあと、思えるようになった。
話は逸れてしまったように思うが、この映画を観てそんなことを思い出した。
映画タイトルの「ボヘミアン・ラプソディ」もいいけれど、
映画の最後に高らかに歌い上げる「We Are The Champion」もよかった。
観客みんなが拳を振り上げて、俺たちは勝者だーって歌う。
そう、俺たちは勝者なんだ。