妻への感謝
南昌幸と申します。
私が妻と出会ってからもうかれこれ20年になります。
20年、長いようで短いようで、振り返ると色々な苦労を掛けていたなあと改めて感じるとともに、感謝せずにはいられない気持ちでいっぱいです。
なかなか言葉にして伝えるのがうまくありませんので、この場を借りて伝えたいと思います。
出会いは?
20年前、はじめて妻と出会った時は飲食店の社員とアルバイトという関係でした。
私は入社して4か月目、一方妻はすでに3年ほど働いていたベテランアルバイトでした。
二人の間が急接近したのは当時専門学生だった妻の失恋した話を私が電話で朝まで聞いたことがきっかけでした。
お互いに気持ちが一気に通じ合い付き合い始めたのです。
しばらくは初期にあるラブラブ状態で、私のスーツのポケットの中に妻からのメモがはいっていてそれを読んで感動したり、私が深夜の仕事が終わるまで待っていてくれて感動したり、休みの日は料理を作ってくれてそれが美味しくて感動したりとすごく幸せに感じて過ごしていました。
「私のような者を好きになってくれてありがとう!おいしい料理ありがとう!!」
しかし、二人が付き合っていることが当時のアルバイトリーダーにバレ、そして店長の上司のエリアマネージャーに話が行ってしまい即私は異動になってしまいました。
その理由は、私が妻を特別扱いしているということでした。
神奈川から埼玉へ遠距離恋愛となってしまいましたが二人はそれにめげることなく付き合い続けました。
時には私が体調を崩して寝込んでいると、電車とバスを乗り継いで看病に来てくれました。
「遠くまで看病に来てくれてありがとう!!」
結婚まで3年
遠距離でしたので頻繁には会えず、週に1回会えるか会えないかペースでした。
それでも電話は毎晩のようにしていましたし、会える時は本当にうれしかったです。
私が会いに行ったときなどは別れが惜しまれ、帰りがいつも深夜になってしまい、帰宅中高速の路肩で睡魔に襲われ良く朝まで寝ていました。
このころは私のほうが妻にはまっていましたので色々わがままも多かったと思います。
「遅くまで私のわがままに付き合ってくれてありがとう!」
その後、私は東京、千葉、と転勤していくのですが、だんだん結婚を考える時期になってきたとき、妻が「社会人として3年は勤めたい。結婚は3年後」との考えを打ち明けたのです。
私は早く結婚をしたかったのですが、彼女の考えを尊重して待ちました。
憧れのレストランウエディング
3年の月日が経ち、別れの危機もありながらそれを乗り越え2003年3月30日に結婚式を挙げました。
二人が飲食店で出会ったということで、はじめからレストランで結婚式を挙げようと決めていました。
今はもう閉店してしまって無いのですが、銀座に「キハチ」というレストランがあり、そこを1日貸切って結婚式を挙げました。
料理の美味しさは折り紙付きで、出席していただいた方にもとても好評で狙い通りでした!
妻もドレスを着て本当にきれいだなあって感じて「これから二人で生きていくんだ!」って改めて感じたのを思い出します。
「好きな仕事を辞め、私との結婚を選んでくれてありがとう!」
子供たちとの出会い
結婚生活が始まり、私たちの子供と出会うことを日頃望んでいました。
しかし出会えるまでには少しの年月がかかりました。
妊娠はするのですが、育たずに世に出てくる前に亡くなってしまうのです。
2人、それで亡くなりました。
それぞれに名前も付けていて待ちわびていたのでショックも大きかったです。
はじめて妊娠した子供を外に出す手術をした後の妻の顔はもう見ていられませんでした。
「本当につらかったよね。何もしてやれない自分が情けなくなりました」
そんな辛い経験を乗り越えて、待望の赤ちゃんが生れてきてくれました!
立ち合いを希望していて連絡があったのが日曜日の夜。
仕事を途中で切り上げ病院に駆けつけました。
妻の背中をさすりながら寝てしまうという苦い思い出もありながら(助産婦さんに怒られました)朝方やっと生れてきてくれた時は何とも言えないうれしい気持ちに包まれました。
「13時間くらいずーーっと痛みと戦い抜いて待望の長女を生んでくれて本当にありがとう!」
育てる大変さ
その後長男、次男と産まれ、我が家は5人家族となりました。
私は一人っ子でしたので、こんなにぎやかな家庭はとても嬉しく思っています。
しかしながら私の仕事がなかなか深夜まで忙しく、休みも取れない時期もあったりで、妻には子育ての負担を結構かけてしまっているかなと思います。
転勤で広島に引っ越した時など、かなり負担をかけてしまいました。
「慣れない環境の中子育てをこなしてくれた感謝は感謝してもしきれないくらいです!!」
私もなるべく休みの日は出来る限りのことはやろうと試みましたが、負担を解消するまでには至らずで申し訳なく思っています。
子はかすがい
二人には別れの危機は何度か訪れました。
理由としては考え方の違いや育った環境の違いなど価値観の相違によるところが多かったり、忙しかったりすると、思いやりが欠けたりとかっていうのが良くありました。
言い方もきつくなったりと、それが原因でいつまでも仲直りできなかったりしました。
そんな時は子供がいてくれて助かったなあってことも結構あります。
子供が無邪気に話しかけてきたり遊んだりしていると、自然と優しい気持ちになれたりとかします。
子供のために仲直りをしよう!って思うことができましたから。
子供のおかげです。
「子供たちよ、ありがとう!!!結構冷静だね(笑)」
ここは子供に感謝!
大人への過渡期
子供たちと言えば大人になる前にくぐらなければならないいろんな障害がありますよね。
例えば「反抗期」や「不登校」など。
長女の受験と反抗期
我が家にはじめに訪れた「長女の高校受験」という家族としての大きな壁でした。
結果的には乗り越えられました。
しかし毎晩娘の勉強に付き合ったり励ましたりと本当にパワーがいることでした。
しかし夫婦共通の目標があったからなんとか乗り越えることが出来たんだと思います。
なかなか辛い時期が長かったのですが最終的に目標とした高校へ合格し結果を残すことが出来たことは妻の力が大きかったです。
「妻よ!長女の反抗期にもきちんと娘の話を聞いていてくれたり、お弁当を作ってくれたり役員の仕事もあったのにフル回転でありがとう!!」
長女のいわゆる反抗期を乗り越えられたのは妻の努力によるところが大きいと感じてます。
長男の不登校
次にやってきた問題は長男です。
学校へ行かない問題です。
これは今も現在進行形です。
私は自分自身の過去を振り返ると、「どんなにきつい状態でも学校へ行っていたしなあ」と思うとどんな理由があるとしても学校へ行かないという選択肢を選ぶ長男をどうしても理解できませんでした。
長男と二人きりになるときつい言葉を浴びせたり、詰問のような尋問のように問い詰めたりしまったこともありました。
しかしながら妻はそんな長男をとにかく理解していました。
最低限朝起きてきちんと着替えをして家の最低限の手伝いをさせ・・。
長男はとにかく時間があればなんとなくオンラインゲームをしています。
私としたら、「どうせやるならとにかく突き詰めてゲームのパフォーマンスでスポンサーがつくくらいにやるならば良いけど、そうでないなら学校へ行くべき」みたいな考えだったのですが・・。
妻が長男の今の現状を理解しようと強く言い続けているのを聞くにつれ、また時が経つにつれてだんだん「待ってみてもいいかな」って思うようになりました。
自分も中学の時は学校は行っていましたが優等生で見られるのが嫌で悪ふざけして先生に殴られていましたし、高校の時は学校は行っていましたがみんなと同じがいやで良く遅刻していました(謎の反抗)。
そんなことを思い出すと子供のことを責められないなあって思い返しました。
「反抗は人それぞれだなあっ」て。
そう思えるようになったのも妻の強い気持ちがあったからこそでした。
「暴走モードの自分を抑えてくれてありがとう!」
解決したわけではありませんが、道はいろいろあるし長い道のりですし、今では長い目で見ようと思ってますね。
まとめ
今まで付き合って20年間、様々な苦労をかけ、約束も必ずしも守れたわけでもなく、未熟な自分と何はともあれ一つの家族を築き上げてきてくれて本当に感謝の気持ちでいっぱいです。
今もいろんな問題があり、この先も課題が山積みではありますが、前を向いて色々と話しながら感謝しながら先へ歩んでいきたいと思います。
きちんと恩返しもしていきます!
今までありがとう!
これからもよろしくお願いします!