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幸せのほうに #月刊撚り糸

 今年は喪中だから年賀状は来ないだろうと思っていた。届いたとしても、保険屋だの車屋だの、年賀に便乗した宣伝ぐらいだろう、と。

「理沙、タナカユウタさんって理沙の知り合い?」
「んー? 誰それ?」

 炬燵でぬくぬくとニューイヤー駅伝を見ていたら、夫が年賀状を卓上に置いた。初めて聞く名前。宛名違いだろうと思って覗き込んだ葉書には、華々しく「賀正」の文字が描かれていて、その下に婚礼衣装に身を包んだ男女の写真が印刷されていた。

「あ、これ、千晶だ」
「チアキ?」
「奥さんのほう。大学の同期」

 化粧無しでもそこそこ整った顔の彼女は、プロのアーティストの手にかかったら、そこらでよく見る女優よりよっぽど魅力的だ。独身だったら私も惚れる。
 でも、結婚相手の方は、まあ平たい顔というか、しょっぱい顔というか、お世辞にもカッコイイとは言えない。左目の下の大きな泣きぼくろが、仕事できなそうな感じを醸し出していた。

「喪中はがき送り忘れたの?」

 夫の言葉が、針みたいに心を刺した。

「いつもは年賀状やりとりしてない。うーん、このとき祝電おくったから、その住所で送ってきたのかも」

 結婚式に呼ばれない程度の、祝電を送っても返事が来ない程度の、実父の訃報を知らせない程度の付き合い。それなのに、私はあのとき、何を偉そうに彼女に語ったのだろう。

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『入籍しました』

 大学同期のメーリングリストに、ときどき届くこの知らせ。(私達が卒業した二〇〇〇年代初頭は、スマホもSNSも無くて、携帯かパソコンのメールが唯一の連絡手段だった)

 四、五年前に結婚ラッシュがあって、研究室の同期十五人のうち、半分が結婚した。その中には私もチアキも含まれてなくて、何度も隣になった友人席では、まだ仕事が楽しいからとお互い苦笑いしていた。
……いや、訂正。苦笑してたのは私だけで、彼女は本気で仕事が楽しくて、独身を謳歌したいと語っていた気がする。いずれにしても、ご祝儀の元をとるとか言って飲みすぎたので、うろ覚え。

 そのあとポツポツと何人か結婚して、私も一昨年結婚した。親族だけの小さな式で、友人は数人だけ。千晶も含めて大学の同期は呼ばなかった。
 そのあと息子を授かって、その顔を一回だけでも見せられたんだから、亡くなった父には最後の親孝行ができたと思っている。

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「『孫の顔を見せるのが親孝行』って、私、千晶に言ったことがあるんだ」
 もらった葉書をレターケースにしまいながら、教会の神父様でもない夫に懺悔した。千晶が入籍をメールで告げてきた時のことを。
「何、突然?」
「私さ、県庁勤めでお役所的発想しちゃうから、保守的っていうか、言っちゃえば考え古いんだよね」
「別に気になんないけど」
 悔やんでいるのはそこじゃない。
「それで千晶と喧嘩別れしたんだ」
「喧嘩?」
「うん、あのね……」
 ここからこそ聞いてほしいという時に、隣の部屋で寝ていた息子が泣き出した。
 結局その日は、私も夫も息子の世話で慌ただしく、年賀状のこともすっかり忘れてしまった。

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 春、4月。アフターコロナ時代と言われながら、リモートワークもろくに進んでいない部署に、私は戻ってきた。どちらかといえば男性の多い職場だけど、課長が子供を3人育て上げたベテラン女性だから心強い。

 1週間も過ぎた頃だろうか、年度の変わり目は保険会社や旅行会社の営業担当が頻繁に出入りするので、名刺をもらっては捨て、もらっては捨ての作業を繰り返していた。この日も午前中に社交辞令で「検討します」とあしらった男性の名刺をシュレッダーにかけようとしていたけれど、なんでだか手が止まった。
 写真入りの、よくあるデザインの名刺で、丸ゴシックで「常陽生命 田中雄太」と書いてある。


 タナカユウタ。

『賀正』『入籍しました』

 千晶?

 千晶!
 
 千晶の結婚相手だ。写真をよく見る。一度しか見たことはないけど、この大きなほくろには覚えがある。
 
 ああ、寒中見舞いを出そうと思っていたのに、忙しくてすっかり忘れていた。

 と思いつつ、自問自答する。
 
 いや、本当に忙しかったか? 忙しさで忘れたことにして、千晶のことを棚上げしてなかったか?

「あ、この子さっき隣の課にいたわねえ」

 課長だ。そうか、我々世代も彼女にとっては「この子」か。

「さっきって、午前中のことですよね?」
「ううん、つい5分ぐらい前。応接スペースで書類広げて、誰かと喋ってたわ」

 それを聞いて、私は隣の課に走った。彼という存在が、途切れては細く繋がる最後の一本の糸、逃してはいけない存在に思えた。

「あの、保険屋さんの、田中さん!」

 正面玄関前で、まさに外に出たばかり、社員証を胸ポケットにしまいかけの彼は、気の抜けた声で「は、はいぃ?」と答えた。ああ、本当に仕事ができなそうな人だな。

「田中さんって、あの、失礼ですけど……」

……奥さんの名前、千晶さんじゃありませんか? と聞きたいけど、聞いてどうするんだろう。別に仲直りしたいわけじゃない。なんとなく未熟だった自分の不誠実を無かったことにしてほしいだけだ。

「何か御用ですか?」

「あ……」

 今度、保険の見直しをお願いします、と誤魔化そうとしたときだ。

「わ、理沙じゃん! マジで!」

 駐車場の方から、いま一番顔を合わせるのが気まずい人物が歩いてきた。なぜ。

「そっか、県庁にいるって言ってたもんね〜」

 上下紺色の無難なスーツに身を包んだ彼女は、外車のキーホルダーを携えて鍵をジャラジャラと鳴らしていた。

「千晶、なんで?」
「あ、この人、あたしの旦那。今日、午後有給とって引っ越しなの」
「引っ越し?」
「そ。この人の転勤についてきたってわけ」
「……会社は?」
「この際だから転職してやったわ」
「えっ」

 一部上場企業をあっさり捨てるなんて、何という行動力。まあ、彼女の優秀さから言ったら何でもできるだろうし、不思議じゃないけど。

「同じ県に住んでるんだから、そのうちご飯食べに行こ! じゃあね〜」

 大学時代と同じように、当たり障りない、人形みたいに整った笑顔を振りまいて、颯爽と立ち去ろうとした。

「待って。ちょっと待って!」

 鍵を握りしめた千晶の顔には「急いでるんだけど」と書いてあったけど、今を逃したらダメな気がした。

「私、千晶に謝ることがある!」

ーーーー

 千晶が入籍報告をメールしてくれた時のこと。
 私はちょうど息子を出産したばかりで、浮かれていたし、夜泣きやなんやの睡眠不足で思考力が低下してたこともある。

 私はお祝いのメッセージに「早く子供の顔がみれるといいね」と添えた。悪気はまったく無い。私自身は子供が生まれて幸せだし、それは万人に共通の感覚だと思っていた。

 まさかの返事が、「それ、私が不妊治療してても言える?」だった。そこから「孫の顔見せるのが親孝行」と続き、DINKSの話、人生の在り方の話になり、気づいたら私のほうがが返事するのを辞めていた。

 お詫びのつもりで祝電だけおくったけど、その後音沙汰なかったから、絶縁されたものと思っていて、年賀状は不意打ちだった。

ーーーー

「あのときのメール! 私、知らなかったの」

 千晶が虐待経験者で、子供を持たないことを希望してる、とは別の同期から聞かされた。親が嫌い、親が憎い。自分は親になりたくない。そういう人がいるという想像力が働かなかった。
 知らなかったんだから、といえばそうだけど、プライドが邪魔して、謝るに謝れなかった。それをを今更、私はなんで……

「気にしてない」

「え」

 本当に? あのメールよろしく喧嘩になりはしないかと思っていたのに、拍子抜けだ。

「気にしないのが、一番だから! って、この人の口癖」

 そう言って千晶は雄太さんと腕を組んだ。

「あたしも理沙も、社交辞令に一喜一憂しなくていいんだよ。目の前の大事な人と幸せに過ごすのが一番」

 だから残業の多い前の仕事を辞めたんだ、というようなことを語って、彼女は去っていった。

 人って変わるもんだな。

 美人だけど影があった以前の彼女とは明らかに違う。雄太さんがどういう人かはまだ全然わからないけど、彼は少なからず千晶を幸せのほうに導いてくれている。

 これから先、誰かの言葉に揺らぎそうになったとき、千晶のものになった雄太さんの言葉が、私を支えてくれる気がした。

 目の前の大事な人を、大切に。

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南葦 ミト
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