もし、私に「おじいちゃん」がいたなら
物心付いたとき、私に「おじいちゃん」はいませんでした。父方の祖父は私の生まれる前に、母方の祖父は私が2歳の頃に亡くなったそうです。だから、世間がいう「おじいちゃん」という存在がどんなものなのか、私は想像するしかありませんでした。
Tさんと出会うまでは。
10年ほど前、弓道を通じて知り合ったTさん。彼は昭和7年生まれで、私の父方の祖母とほぼ同年代。出会いのきっかけは置き手紙でした。
寂れた弓道場にて
社会人一年目の当時、就職した場所は、弓道を学んだ大学から遠く離れており、弓道を続けるにあたって、誰かの紹介を受けることは困難でした。そこでインターネットで「弓道場」を検索すると、表示されたのは隣町。車で30分程度だから、まあ許容範囲内です。
ところが、いざ喜び勇んでその市民弓道場を訪れると、だーれもおらず、閑古鳥が鳴いておりました…ちょこっと不安。でも、人が出入りしている気配はある様子…管理人さんに聞くと「Tさんって人がよく練習しているよ」と教えてくれたので、桟敷の長机に、弓道を始めたい、支部に加入したいという旨の手紙を置いて帰りました。
後日、書き残した電話番号に着信が。「私はTっていうんですけど、日曜日の朝に弓道場で待ってますから!」そんな簡単な短い会話だったと思います。そうして訪れた弓道場には、小柄で眼鏡をかけた白髪のおじいちゃんが一人、チャキチャキ弓を引いていたのでした。それが、Tさん。元気な人だ、というのが第一印象。
世話焼き
世話焼きで、弓道の練習が終わったあと、昼ごはんに連れて行ってくれたこともあります。一度、回らない寿司屋に行ったときは恐縮しましたが…正直おいしかったです。(今思うと、かつて栄華を極めた弓道場が寂れていかぬよう、若人(当時20代前半)を繋ぎ止めたかったのかもしれません。想像ですが)
Tさんの弓道の腕前は確かで、五十代の頃は県内大会で優勝したこともあるそうです。私もたくさん助言をいただきました。ところがこの助言というのが昔ながらの「こうあるべし」という、過程でなく結果を示す「見て盗め」な方式です。(弓道には見取り稽古という言葉もありますから、もちろん見て盗むことはすごーく大事です)私も試行錯誤しましたが、うまくいきません。Tさんは「こうすんだ」と何回も教えてくれるのですが、若かりし私は「どうやったらこうなるんですか」と半ば逆ギレ…今思うと反省するばかり。(でも、この逆ギレを好意的に捉えると、私は「おじいちゃんに甘える」という感覚をTさんと出会って初めて感じたような気がします)
活動的!
その弓道会の練習は週に一回、日曜だけでしたが、前の職場は22〜25時帰宅が当たり前で、疲れて練習に行かないことが多く、試合のときだけ参加ということも多くありました。最初の頃は、私が会場の場所を知らないからという理由で、Tさんの車に同乗して行ったこともあります。が、その運転たるや、高齢者マークをつけて高速道の追越車線をビュンビュン飛ばす!(速度についてはご想像におまかせします)助手席で驚いたことは今でも忘れません。
あと、なぜか運転中は戦時中の話をよく聞かされましたね。当時十代だったはずなのに、軍隊のことにやたらと詳しかったです。
連れていってもらった試合会場ではたくさんの弓引き仲間を紹介してもらいました。地元でもなく大学所在地でもない見ず知らずの土地で交流が広がることは、私にとって精神的な支えになりました。
ドン底での救い
また、私が初めて転勤を経験した頃、時間的には余裕ができたものの、精神的にひどく落ち込んだ時期がありました。職場と家の往復生活はまずいと思い、いくつかの地域コミュニティに顔を出したのですが、その中で最も救いとなったのは、Tさんのいる弓道会でした。
長年親しんだ弓道に触れて安心したのかもしれないし、新しく仲間になったおばちゃん達のおおらかな人柄に癒やされたのかもしれないし、Tさんの「まあいいから取りあえず弓引けよ」というマイペースさに呑まれたのかもしれません。いずれにしても、精神的ドン底にいた私があのとき生きのびることができたのは、Tさんが繋ぎ止めてくれた弓道会のおかげです。本当にありがたい限りです。
弓道大好き、いつも、いつまでも
その後、我々の弓道会には退職した60代の方や地元の高校のOBOGが次々と入会し、賑わいを取り戻していきました。なんとなく口約束で週一回だった練習も、支部で団体予約をとって、週3-5回に増えていきました。(活発なシニア世代のおかげです)
近年のTさんは、貯金か年金かわかりませんが、高級な弓や矢をポンポン買っては人に貸すという羽振りの良さ…決して嫌味ではありません。本当に弓道が大好きで、弓一筋という感じでした。
弓、一筋。
その印象が誤りであったと知ったのは、Tさんの告別式のときでした。
知らなかったことだらけ
故人を偲ぶ展示の中に、もちろん弓も矢もあったのですが、同じ場所には立派な筆と硯とTさんの書いた作品も並んでいました。どうも書も嗜んでいらしたのだとか――ああ、そういえば、いつか弓道場の改装が終わったとき、矢立箱に「一射入魂」みたいな言葉が書いてあったっけ、と腑に落ちました。
さらに、ご遺族の言葉や式典中の紹介文を聞いて(詳しくは割愛しますが)、ああ、私はTさんのことを何も知らなかったんだなあと思い知りました。85年の生涯のうちの10年、しかも年に数回とか、多くても週一回の付き合いだったのだから、仕方がありません。
でも、Tさんの人生85年のうちの10年っていうと、1割ちょっとだけど、私の人生(約)30年分の10年って、3割です。私にとっては、会った記憶のない祖父達よりもずっと濃い関係でした。
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大きな後悔
晩年は体力的に弓を引くこともままならず(跪坐から一人で立ち上がれないほど)、たまに顔を出してはみんなに助言をして帰る程度の参加で、会うたびに衰えを感じてはいました。不謹慎な表現ですが「Tさんから弓道をとったら逝ってしまうな」と思っていたくらいです。
最後にお会いした頃には、運転免許証も返納したと聞きました。高速道路をかっ飛ばしながら戦時中の日本を語った姿はもうありませんでした。
唯一にして最大の私の後悔は、Tさんに娘の顔を見てもらえなかったこと。
最後に会ったのはいつだったか覚えていませんが、それでも「来年生まれる予定で…」くらいは話していたはず。落ち着いたら顔を見せに行こう、そう思っていた矢先の2019年初夏、Tさんは帰らぬ人となりました。
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もし、私に「おじいちゃん」がいたなら…
あれから半年以上が過ぎ…もうすぐ一年経ってしまいます。
弓道を通じて出会った、これと決めたら一直線で、世話焼きで、ちょっとこだわりの強いTさん。
繰り返しになりますが、たった10年の付き合いだったけど、祖父を知らない私にとって、Tさんとの繋がりは、貴重な関係でした。
もし、私に「おじいちゃん」がいたなら、Tさんみたいな人がいい…
いや、Tさんこそ、今の私の「おじいちゃん」だったのだと、彼がいなくなった今、そっと思います。