最悪な災厄の日に食べた最高の一皿
あの夜。混乱と不安と恐怖に震えた、あの冷たい夜。停電下の真っ暗な駐車場で見上げた満天の星を、私は一生忘れない。
11日、金曜日。
当時、茨城県内のとある高校で英語教師として働いていた私は、その日に限って昼食を食べそこねていた。珍しく手作り弁当を持参していたのに、トラブルが続出し、電話対応に追われ、気づいたら14時台になっていたのだ。お腹が空いた……でも昼休みはとっくに終わってるし、いつまた電話が来るか分からないし……悶々としている私に、神の声が届いた。
「ご飯まだでしょ。食べてきなよ」
女神様……! もとい二歳上の先輩だった。同郷の福島県、しかも隣町出身。厳しくズバッと切り込むこともあれば、真冬のホッカイロみたいに優しいこともある、頼りがいのあるお姉さん。
彼女に促されて、こっそり、弁当箱片手に休憩室へ向かった。
これでやっと昼食にありつける……私は弁当箱の蓋を開けた。
嗚呼、頑張って作ったお弁当よ……まぁ、ふりかけご飯にミニトマトと冷凍食品を詰めた程度だけど、家事レベル0.2くらいの私にしては上出来なのだ!
さあ、頑張った私にご褒美。
大好きなエビカツを一口食べたところで――
2011/03/11 14:46:18
低い轟音。
小刻みに揺れる地面。
やがて建物全体がドンッと左右に揺れ始めた。
机の下に身を隠し、缶ジュースが落ちてコロコロ遠くへ去っていくのを見つめた。揺れは止まらない。
私、死ぬかも。
人生で初めてそう思った。
ほんの少し揺れが弱まった時、誰かが避難を呼びかける声が聞こえた。千鳥足で外へ向かう。弁当箱なんて、持っていく余裕は皆無だった。
屋外に出ると、生徒達は混乱しながらも駐車場に整列してしゃがんでいた。偉い。私は自分の担任する生徒の人数を数え、全員が無事であることを教頭に報告した――避難訓練通りに淡々と、平静を装って。空腹のことなんか全く頭から抜けていた。
全体指示を待つ間も、地面が大きく揺れた。収まったかと思うと、また揺れた。泣いている生徒も多かった。でも、私には背中をさすって「大丈夫」と言うことしかできなかった。大丈夫かどうか、全然分からないのに。
ほどなく、生徒を帰宅させて良いという指示が出された。自力で帰れる徒歩圏内の生徒からどんどん帰す。その次に帰したのは、家族が迎えに来た生徒、それらに相乗りできる生徒……日が暮れる前に9割は帰宅させた。家族と再会した生徒のほっとした顔を見る度に、私も一緒に胸を撫で下ろした。
一方で、沿岸部の住民が津波から避難してきたために、その対応に追われることにもなった。外部からの避難者への対応は当時の訓練内容には無く、全て手探りだった。
収容力のある体育館はガラスが割れたため使用不可。物の多い校舎は言わずもがな。唯一開放した合宿所はすぐ満杯に。やむなく、後から車で来た人達はグラウンドに誘導し、車内で待機してもらった。申し訳ないと思いつつ、暴動の一つも起こさない彼らには感謝しかなかった。
そして、黄昏時。
誰かが小さなドラム缶で火を焚き始めていて、生徒、職員、地域住民関係なく、みんながそこで暖を取っていた。
ドラム缶の中には、様々な物が投げ込まれた。拾ってきた枝木、事務室から持ってきた古新聞、カタログ……翌週に予定されていた行事の要項もあった。誰が入れたか知らないけれど、どう考えても実施は無理だし、責める気も無かった。
揺れる炎を見つめるうちに、日は落ちて、暗い暗い夜がやってきた。冷たい風に、凍える体。かじかんだ手指を擦るうち、ある重大なことを思い出した。
お弁当食べてないなあ、と。
休憩室に残してきた弁当箱を思う。蓋を開けっ放しで来てしまった。揺れで埃を被ったかもしれない。足の早い卵焼きはもう駄目だろう。一所懸命、作ったんだけどなあ……ため息しか出なかった。
胃が空っぽだと自覚すると、喉の渇きとか、荒れた唇とか、余計なことまで気になりだした。もう何時間も、口に物を入れていない。
急速に訪れる虚脱感。もう動きたくない。何か持ってないかなあ、と上着のポケットを探ったけれど、あるのはリップクリームとハンカチだけで、飴玉の一つも見つからない。リップは無香料、塗っても甘い香りの一つすら無かった。
真っ暗闇と、尽きない不安。
ゆらゆら、ゆらゆら、炎を見つめ、時々、周囲を見渡した。辺り一帯が停電していたから、明るいのはドラム缶の周りだけだった。
振り向けば、闇の中にぼんやり浮かび上がる校舎。その向こうは……もう、まさに真っ暗。それまで出会ったどんな夜闇よりも深く冷たかった。
そのうち、先輩から「松川浦大橋が流されたらしい(※後述)」と聞かされた。いつも明るい先輩がこぼす不安に、私の心はぐらぐら揺れた。
自分達だけでなく、地元・福島県相馬市の人々もまた厳しい局面にある……この時点で、私は実家の家族と一切連絡がとれていなかった。嫌な予感が頭をよぎる。最悪の場合も、覚悟した。
でもそんな時ほど、何気ない日常が思い出される。母さんの作った肉じゃがをもう一回食べたい、とか、父さんともう一度スーパードライで乾杯したい、とか……
ああ、なんでそんなことしか考えつかないんだろう。
自分の浅はかさに頭を抱えた時だ。
一台の大きな車が、ヘッドライトを煌々とさせて、敷地内に入ってきた。
前面に「災害支援車」という大きな垂れ幕を掲げて。
希望の光。
多分、市役所か消防団の車だったのだろう。赤く大きなその車から降りた人達は、いくつかの段ボール箱を男性職員に手渡していた。作業を手伝いに行って覗いた中身は、非常食――アルファ米だった。
食べ物……! 私は唾を飲んだ。 やっと、まともなご飯が食べられる……!
もちろん、優先して配るのは避難してきている地域住民だ。調理室のガスで沸かしたお湯を注いでは、あちらこちらに配って回った。先に温かいご飯を口に含む人々を羨みもしたけれど、しばしの辛抱。配って、配って、配り歩いて、地域の人に十分に行き渡って初めて、私の手元にも「わかめご飯」が届いた。
やっと手に入れた手の平サイズの小さな袋は、ほんのり温かかった。
正面玄関の屋根の下、冷たい敷石に腰を下ろして、ゆっくりとジッパーを開けると、ほわっと湯気が浮かんだ。
プラスチック製の、これまた小さく透明なスプーンで、ご飯を掬い、口に運ぶ。
ほんのり塩味が、じわぁ、と染み渡った。
あったかい。
おいしい。
それ以外の言葉は思いつかなかった。
小さなスプーンで米を掬い、いつもの何倍もよく噛んで飲み込んだ。次は、いつ食べられるか分からない。何回も何回も噛みしめた。
生きてて良かった。
心なしか、冷え切った手足が温まったような気がした。
見上げた夜空は底無しに暗かったけれど、あの夜以上に輝く満天の星を、私はまだ見たことがない。
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これが、私の最高の一皿。というか、皿ですらないけれど、最悪な災厄の日に、人生で一番おいしいものを食べた時の話。
大地震、大津波、原発事故の被害の大きさに私が心を痛めるのは、その翌日以降のこと。でも、その話はまた別の機会に……
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【東日本大震災】宮城県牡鹿半島の東南東沖130キロメートル (km)(北緯38度06.2分、東経142度51.6分、深さ24 km)を震源とする東北地方太平洋沖地震。地震の規模はモーメントマグニチュード (Mw) 9.0で、発生時点において日本周辺における観測史上最大の地震である。(Wikipediaより)
※松川浦大橋は、福島県相馬市の松川浦地区における象徴的存在。「流された」のは本体と市道を結ぶ一部分で、全体としては原型を留めた。
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以上は、筆者の実体験を元にした半フィクションです。こちらのアンソロジーに参加しています。
テーマ「最高の一皿」に沿うような料理をいろいろ思い返したんですが、何回拭ってもあのわかめご飯が頭に浮かんでしまいました。
美味しいだけなら沢山あるんです。お祝いだとか、記念日だとか、料理にまつわる思い出。
でも、どーーうしてもあの味だけが、忘れたくても忘れられなくて……というわけで、拙いながらに、書かせていただきました。
二度と経験したくはないけど、地震の周期的に人生であと一回は出遭ってしまうだろうその時のために、あるいは別の自然災害への対策として、私は非常食を備蓄しています。情報を再掲しておきます。こちらは味が五種類あるのでオススメ。
備えあれば憂いなし。我が家の収納庫です(ちなみに下の段ボール箱の中身はノンカップ麺)
ちなみに、平時に食べてもそんなにおいしくありません。
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Special Thanks
この記事の執筆にあたっては次の皆様のご協力をいただきました。(連絡早かった順です)
めっちゃ助かりました!見違えるようです……ありがとうございましたm(_ _)m