私の変態の父#5_ー家父長制度と性的虐待ー
2023年3月26日、X(旧Twitter)投稿より引用。
私が13歳の時に母が死んで父から強制わいせつを受けたあと、母の唯一の友人から電話が来て私が電話をとりました。彼女は「お母さん退院した?」と私に聞きました。私は母は死んだと伝えました。
父は母の友人関係を把握していなかった。母の姉妹も親戚関係も。誰も母がどんな人間かに興味がなかった。子を産み生きて嫁の役割をやっていればそれでよかった。
その母の唯一の友人はオオトミさんという人でした。13歳だった私は覚えています。私が知る限り、死んだ母の気持ちを察して言葉にして娘の私に聞かせてくれたのは、母の友人であったらしい彼女だけでした。たった数分の電話の中で。
実父からの強制わいせつ行為を受けたあと40年以上経ってから、私は死んだ母の妹(私の叔母)に、母はどんな人だったかたずねました。叔母さんの回答はたった一言
「真面目な人だったわ」
だけだった。母の人となりを示す具体的なエピソードはなかった。叔母は母と仲が悪かったのではないかと思う。
母が生きている時から、私は父と母が会話したり笑い合う場面を見た記憶がない。家の中は常に緊迫した空気だった。母が死んだあと、家族で母の思い出を一度も語ったことがない。
叔母は、私の母が見合いの結果、変態と結婚してしまったことをわかっていた。自分に火の粉が飛ばないように疎遠にしていた。
1960年代の日本。
私の母は高学歴で大企業勤務のよい条件男と見合い結婚して庭付き一戸建ての家の主婦になった。でも夫は酒を飲むと真っ裸で性器を出して路上に立ったり塀の上を大声で歌いながら歩いたりして近所の奥さん等をふるいあがらせた。
私たち家族は父の転勤のため、母が育った土地から離れていた。母にはもちろん仕事はなく、母も叔母達も、それぞれの「ご主人」にもし出て行けと言われたら生きていけない、自分の意見を主人に言うことすら出来なかった時代。
そして父は「出て行け」と言うタイプの主人だった。
母の死後、父は、13歳だった私に強制わいせつ行為をしてから、母の代わりに家事をやる私にも何度も「気に入らないなら出て行け」というセリフを投げつけた。母にも言っていただろうことは容易に推測できる。
42歳で死んだ母の人生の孤独はどれほど深かっただろう。
大企業に勤め稼ぐ父、専業主婦、3人の子。絵に描いたような完璧な伝統的家族観を体現した家庭だった。高度経済成長期の中、男は稼げばあとはなんでも許された。
父も母も、妻夫父母の役割をまっとうすることしか頭になかったのだろう。
42歳で専業主婦として孤独の中死んだ母と変態の父は、自分はなんのために生きているのか、自分にとって何が幸せなのか考えたことがあるだろうか。
伝統や文化とは、洗脳や宗教に近い。人間から考える力を奪ってしまう。当時の日本では、いや今でさえ、この空気は色濃い。
伝統的家族観や役割から逃げることは、わがままでずるく、無責任な人間がやることだ、どっぷり浸かっている人達はそう思う
私に強制わいせつをした父に、私がその事実を告げた結果、親戚からも家族からも私への連絡が途絶えている。彼らがそこまで怒りを私にぶつける理由は、私が娘の役割を降りたから。
家族や地域の中でそれぞれの「役割」をまっとうすること、これが日本社会にとって道徳的だとされている。
『実父から強制わいせつ行為をされるくらいで娘の役割から逃げるな』
私の親戚家族はそう思ってる。叔母から「あなたは責任から逃げようとしている」と手紙が来たこともある。
これを読んでくれた人や若い人に伝えたい。
役割から降りろ。
自分の軸を持って。果たすべき責任がどれなのか、自分で判断して。海外も含め、いろんな価値観を知って。いろんな人と本気で対話して。本を読んで。
私もその途中です。