【小説】音速世界
六甲山を大きく削り取った滑走路。直上というよりはある程度角度を付けた発射台を眼前に据えながら、管制塔からの命令を受けて俺が乗るジェットのターボエンジンに点火される。
凄まじい轟音と共に地震のような揺れが衝撃波となって周囲に広がり行く。
俺の視界の端には『第参拾弍次射出実験』の文言が踊る書類が映った。
「......やった」
音速を超えた世界で、ようやく俺は一息つくことができた。
やっと、やっとあの呪縛から解かれる日が来たのだ。俺は静かな歓喜を珈琲と共に嚥下する。
■■■
あれは大学に入りたての頃、お気に入りのレビンで六甲山を駆け降りている時だった。
コンコン、コンと"右側"から音が聞こえる。飛び石にしては規則的だった。時速70kmで駆け降りる最中、ちらと横に目を遣る。
にこり、というよりもニヤリと形容した方が良い笑みを貼り付けた上品な柄の着物を着た老婆が、俺の車に並走していた。
それからの記憶は定かではない。
驚異と恐怖と反駁と怒りに翻弄されながら峠を下ったのだろう。その時に飲んでいた珈琲の苦味を思い出すたびに震えが走るのだ。
俺は車を替えた。
日産GTRの上から叩きつけるような、暴力的と思われる走りに付いて来られる者はいなかった。
これなら、と意気込んでいたのも束の間、幾度か走ると再び奴は現れた。
コンコン、コンと。
思わず鼻息を荒くしながら横を見ると、件の老婆が相変わらずの笑みでそこに居た。
畜生!!
と叫んだのは俺だったのか俺の想像だったのか。今では思い出せないでいる。
俺は峠を降りて、走り屋を辞めた。
車のターボで無理なのであれば致し方ない。
学が無かったので何度か落ちながらも大学へ入った。
物理学の航空力学を専門とする学部で、日夜数字と格闘した。
一方で日本最高峰の瞬発力を誇るF1レースの見学をする為に鈴鹿まで出向いた。ヤマハのエンジンは素晴らしい音を奏でていた。
■■■
そして今、とうとう奴に打ち勝ったのだ。そもそも奴が根城としていた六甲山はその3分の1が削り取られ、今やなだらかな発射台と化している。
そのコックピットに座り、あの頃と同じように操縦桿を握るのは他ならない俺だった。
いよいよ加速する。大きいGが全身を襲うも、訓練通り耐え抜く。
「ッハハハハハ! ざまあみやがれ!」
俺は管制塔から気が触れたと思われない程の声量で奴に勝利宣言をした。
その時だった。
コンコン、コンと。
有り得ない。有り得てはいけない。
俺は無表情になり真っ直ぐ前を見る。
コンコン、コン。
また鳴る。
誰だ。コックピットに横窓をつけた奴は。
俺は横を見る。大学の頃に見た奴は、変わらぬ格好で俺の真横で並走していた。上品な柄の着物を着た老婆。変わらねぇ。
「まさかマッハまで付いて来られるとは思わなかったよ」
ジェットが歌う轟音の中、どこか清々しい気持ちに支配されつつも、やはり復讐を誓う。
ニヤリと笑みを浮かべた老婆からは少し違う印象を受けた。
"やっとこのスピードまで来れたか"
冗談じゃない。俺はもっと先に行く。
あの頃とは違い、俺は獰猛に笑い返すのだ。
「畜生ォォォォォォ!!!」
管制塔に聞こえても構わない絶叫を上げながら、俺はジェットと共に空へと舞い上がった。