【小説】露店商
それは世間がバレンタインデーで賑わう季節の頃だった。会社帰りの道を歩いていると、時期でもないのに屋台がぽつんと佇んでいる。
一体どこの許可を取ったのやら。
取り急ぎやる用事もなかったので、興味本位で軽く覗いてみる。そこには安っぽいシートと手書きの『格安』ポップ、そして高く積まれた缶詰が置かれていた。
「何屋さんですか?」
おずおずと、店主であろう露店の主に尋ねる。かなり年老いているように見えるが、実年齢は定かではない。
「そらもう、これよ」
近くにあった缶詰を俺に見せてくる。そこには丹波黒豆と書道で書き殴ったようなフォントと、テカテカと輝く黒豆の写真がプリントされていた。
黒豆の缶詰屋か。
面白いと思った俺はひとつ貰うことにした。
「500万円ね、おおきに」
大阪ジョークを上手く返すことが出来ずに500円玉を渡した俺は、そのまま帰宅した。
缶詰の黒豆は甘味の中にある少しの塩味が良いアクセントになっており、大変美味であった。
しばらくして久しくあの道を通ると、件の露店は無くなっていた。そりゃ黒豆の缶詰では商売なんか成り立たないだろう。
そう思っていた矢先。あれは春分の日だっただろうか。
「......あれ?」
また、ある。久々にあの黒豆を食いたいと思っていた俺はすぐさま飛び込んだ。
「黒豆ください」
「いやあれは終わった。今はもう、これよ」
店主が差し出してくるのは同じ缶詰、だがよく見るとむき海老と書かれてある。むき海老の缶詰、聞いたことがない。
「まぁ、長生きせなな」
「もらいます」
「770万円、おおきに」
物は違うが、僅かに物価高を思わせるその台詞を聞きながら俺は支払い、缶詰を鞄に仕舞い込んだ。
むき海老の缶詰は汁までしっかりと海老の味が浸透しており、少し摘んだだけで感動した俺は、それをラーメンの出汁と具材に使うことにした。春先の夜食に合い、大変美味だった。
新緑の季節に行くとまたしてもあの露店が姿を現した。クオリティが保証されている以上行かざるを得ない。
「今日は何を」
「久しぶりやね。人生、子宝に恵まれんとな」
「なるほど」
数の子の缶詰であった。
ここでようやく俺は悟った。
初夏には田作り、お盆には昆布巻き、秋には紅白蒲鉾が缶詰となって出て来ていた。
「いつもおおきにね。これ蒲鉾930円」
俺はそれらを全て購入していた。
いよいよ、大晦日。
最後なのか最初なのかよく分からないまま店に入ると、そこにはいつもの缶詰が置かれていない。代わりにでかい鍋と出汁のよく効いた匂いが鼻腔を突いた。
「大晦日やからねぇ」
俺が何かを言う前に店主は鍋から出汁を掬って器に入れると、用意していた蕎麦を箸で丁寧にほぐしながら揃えて入れる。いつの間に準備したのかかき揚げを上に乗せ、俺の前に置いた。
「お客さんは太客やからねぇ、それは無料や」
「ありがとうございます! いただきます!」
出汁の旨み、かき揚げの食感、きめ細かい蕎麦の舌触り、全てが完璧で俺は感動した。
「ご馳走様でした」
「あぁそうそう、お代なんやけどな、ちょっと足りへんわ」
そう言うや否や店主は俺の腕を握り、ポケットからクシャクシャの紙を出してくる。
なんだ? なんだこれは?
【請求書】
丹波黒豆 ¥5,000,000
むき海老 ¥7,700,000
数の子 ¥4,800,000
田作り ¥3,200,000
昆布巻き ¥8,800,000
紅白蒲鉾 ¥930
年越し蕎麦 ¥0
小計 ¥29,500,930
既受取代金 ¥3,880
請求代金 ¥29,497,050
紅白蒲鉾の時に『万円』を付けなかった理由が分かった俺は、ゆっくりと昏倒した。