嘘
嘘をつき合う関係は美しい。相手のためを思って嘘をつく。相手のためを思って騙された振りをする。たとえば、遊園地。音楽に合わせて踊り、来場者に手を振るキャラクターは、紛れもなく人間が中に入った「着ぐるみ」だ。いくら「魔法」や「夢」といった言葉が飾ろうと、ふつうの来場者なら“それ”が「着ぐるみ」だとわかる。でも、わかっていても、わかっているからこそ惹きつけられる。来場者は、遊園地のつくその嘘が、自分たちを楽しませるためにつかれたものだとわかるからだ。
騙されているとわかっていながら、騙されることを楽しむ。嘘を嘘と咎めず、甘受し、そうして結ばれた共犯関係は、美しくて、高貴で、心地良い。
7月、午後10時、東京、新宿駅東口改札。天井が低い構内には人が溢れ、息がつまる。わたしはただまっすぐ、「歌舞伎町方面」と書かれた出口を目指した。地上に続く階段を一段また一段と上るたびに、息が荒くなっていくのを感じる。暑さのせいではない。緊張と高揚に似た感情で呼吸が浅くなる。階段を登り切ったら、あとは急ぎ足で歌舞伎町へむかう。雑踏も、ビジョンからけたたましく流れる広告も、「稼げてる?仕事、紹介するよ」という声も、もはやわたしの耳には入らない。ただ、目的地のあの店を目指す。「あの店」は、建前上は飲食店だけれど、実のところ嘘が売られていて、世間では「ホストクラブ」と呼ばれている。なんとも不思議だ、お酒を買うと嘘がついてくるのだから。わたしも例外なくその嘘を買いに行く。ここ歌舞伎町にはいくつもそうした店があるけれど、わたしの行きつけは1つに決まっている。指名しているKが在籍している店舗だ。駅から10分ほど歩いたところで、店が入っている雑居ビルの前に着く。エレベーターに乗り、「7」のボタンを押す。そうしてすぐに鏡を見て、汗ばんだ前髪を直し、口紅を塗り、香水を振る。指がかすかに震え、心臓が一層早く脈打つ。まるで、「恋人とデートに行く女の子」みたいだ。ほんとうはなにもかも違うのに。彼にとってわたしの身なりなんて、これぽっちも関係ないのに。私に嘘を買わせてくれるあの店員が、わたしを好きになるなんて、ましてや付き合うなんてあり得ない。でも、「嘘を買いに行く」のだ、その嘘を楽しむためには共犯関係をむすばなくてはならない。だから、自分に気がある相手に会いに行くような、デート前の女の子のような、そんな素振りをしてみるのだ。そうするうちに、エレベーターチャイムが無機質に目的階についたことを知らせる。肺いっぱいに息を吸い込んで、店内に足を踏み入れる。スタッフに「Kくんで。」と伝えると、恭しく頭を下げ、わたしを席に案内した。蠟燭の焔で薄明るく照らされた店内には、既に多くの「嘘を求めてやってきた顧客」がいて、彼女たちはみな恍惚とした表情を湛えている。それが酒のためでないのは言うまでもない。隣に座る大好きな人が、自分から金銭という対価をもらって、自分のために嘘を売ってくれる。そんな甘美な共犯を楽しんでいる表情だ。ふかふかのソファに腰を掛け、床に膝を附いたスタッフから手渡されたおしぼりで手をぬぐう。一級品の嘘を一級品の酒と共に嗜むのだから、サービスも高級感にあふれている。よく冷やされた缶チューハイをのどに流し込んでいると、すぐにKが現れた。ティファニーの香水をふんわり香らせながら、彼が私の隣に腰掛ける。
「会いたかったよ。待ってたんだ。」
普通に大学生をしていれば、話すどころか出会うこともできないような美しい顔立ちの彼が、まっすぐ私に話しかけてくる。端整で艶のある唇から発せられるその言葉が、その嘘とわかりきった言葉が、わたしの心をじんわりと満たしていく。
「わたしも。」
なんて、形式的な、なんの遜色もない返事をしてみる。ここではわたしの話すことなんてどうでもいい。ただ、彼の嘘におぼれに来たのだ。わたしの話を聞いてもらおう、分かってもらおうなんて気は毛頭ない。わたしは彼の話に耳を傾ける。先月わたしが注文したシャンパンへの感謝から、最近他の店員と食べた蕎麦が美味しかったことまで。表情をコロコロ変えて楽しそうに話す彼の横顔を見つめる。物分かりが良いです、みたいな顔をして、わたしはうんうんと相槌を打った。この嘘を売ってくれる飲食店には、店員が売り上げを競う不思議な慣習がある。店員たちは皆、自分の指名客に嘘を売る。指名客たちはその嘘を楽しむ対価として、法外な値段の酒を注文する。たくさんの客にたくさんの嘘をつき、より多くの共犯関係を結ばせることのできる店員は、当然高額を売り上げることができる。売り上げが上がれば給料が上がることはもちろん、雑務が免除されたり、運営会議で発言権を持ったり、店舗に大きく顔写真が飾られたりと、華々しい賞与が待っている。反対に、売り上げが少ない店員は掃除や片づけにあたったり、会議でソファに腰掛けることが許されなかったりと苦労や恥辱を強いられる。稼ぐ店員が評価され、稼げない店員は冷遇される、売り上げ至上主義の世界だ。こんなつくりの世界にいるのだから、彼らだって「売り上げが高いほど良い」という嘘の価値観に騙されている。わたしの大好きな彼も、そんな嘘の価値観を受容し共犯関係をむすんだ1人に違いない。その嘘を実現するために嘘を売るのだから、夜の街は噓だらけだ。こんな嘘まみれな世界で、なんてことないある飲食店で、一か月に何百万、何千万と売り上げを上げることになんの意味があるのか、わたしにはわからない。それでも、わたしは、本気で、大好きな彼を「ナンバーワン」にしたかった。嘘を売るなら嘘を売るなりに、虚構だとしても、その虚構が積みあがってできた山の頂点にいてほしかった。だから—。
Kがまっすぐ私を見つめている。彼は私の指を絡め取り、彼の膝の上に乗せるとぎゅっと握って、言葉を続けた。
「今日オールコールができれば今月のナンバーに入れるんだ。俺、初めてのオールコールわたしちゃんにしてもらったでしょ。わたしちゃんとの大事な思い出だからさ。もう一回オールコールしてほしい。」
だから—私はうん、と頷いた。「オールコール」とは、50万円以上の酒を卸した店員と客に対して行われるマイクパフォーマンスのことだ。全店員がその卓に集合し、音楽に合わせて歌や掛け声を披露する。
「ありがとう……。俺、わたしちゃんに出会えて本当に良かった。超楽しみ。」
生き生きとしたしあわせそうな表情でKがわたしに微笑みかける。売り上げを立てることができる顧客はわたし以外にもいるし、オールコールは見飽きているし、わたしに出会えてよかったことなんてない。Kが話す言葉は嘘という商品なのだから。わたしはその嘘の消費者だって、ちゃんとわきまえている。わきまえた上で、わたしも心が満たされていくのを感じる。
時刻は23時半。閉店時間まで一時間半を切ったことを合図に、この飲食店が最も盛り上がりを見せるシャンパンコールが始まる。シャンパンを注文していた卓に次々と従業員が集っていく。Kの話に耳を傾けていると、いよいよわたしたちの卓にも大勢の店員たちが集まって来た。威勢の良い掛け声と共に注文したシャンパンが卓に運び込まれ、店内中に響き渡る音量で音楽が流れ始める。多少の気恥ずかしさもあれど、音楽と声にのせられ自然と高揚した気持ちになる。目立つことが苦手なわたしにとって、「コール」という文化は些か苦痛だったけれど、Kが「わたしともう一度オールコールを見たい」と言ってくれたことが嬉しかった。横を見ると、Kはコールの音楽に合わせて楽しそうに身体を揺らしていた。わたしの視線に気が付き、すらっとした腕でわたしの肩を抱いた。照れ隠しでもじもじと下を向く。シャンパンコールが終盤に差し掛かり、「ご馳走様でした!」という掛け声を合図に店員たちが散り散りに去っていった。残されたKとわたしは多幸感を噛みしめるように見つめ合って微笑んだ。
「ありがとうね、嬉しかった。大好きだよ。」
Kがわたしの両手を握りしめる。いつまでもこの時間が続けばいいのに、というわたしの願いは、スタッフがやってきてKに耳打ちをしたことですぐに打ち消された。彼は私に向き直り、「ごめんね、お手洗い行ってくる。すぐ戻るからね」と言うと、窘めるようにわたしの頭をぽんと撫でて席を立った。わたしは、彼がほんとうは「お手洗い」に行かないと、「お手洗い」は嘘だとわかっている。彼が他の顧客の卓へ行く口実に過ぎない。その客がわたしより高額の酒を卸したらどうしよう。もしそうなったら、彼はその客に対価としてどんな嘘を与えるのだろう。その客は私より高価な嘘を得ることになる。ずるい、それは許せない、焦燥感が押し寄せ、じっとりと手に汗がにじんでくる。ほどなくしてシャンパンコールの音楽が鳴り始めた。わたしはきゅっと唇を噛み、高いソファの背もたれに隠され決して見えることのない遠くの卓を見つめた。コールの歌詞として叫ばれた酒の名前は、わたしが頼んだものよりはるかに安価なもの。安堵を覚えるとともに、怒りに似た感情が湧いてくる。そんな安酒をKに飲ませるなんて、恥知らずな客だ。さっきの不安とは打って変わり、わたしはすっかりその客を見下して気が大きくなっていた。目の前に置かれたシャンパンをぐびぐびと流し込む。酔いが回りふわふわとした気分になっていると、スタッフがやってきて、恭しく膝を附きながら私に伝票を手渡した。そこに記された「¥630,000」の文字を見て、ぽかぽかとしていた体温が醒めていく。私は財布代わりに使っているクリアケースを取り出し、現金を支払った。この金額を支払うことになんの躊躇もない、と言ったらそれこそ嘘になる。スタッフに札束を渡すこの瞬間だけは、何度ここに足を運んでも喪失感に襲われる。札束を一枚一枚爪弾きして数えるスタッフを眺めながら、金への執着、という言葉が頭をよぎる。金で得られる対価より、金そのものへの執着。
「お預かりいたします。ありがとうございます。」
スタッフが下がっていき、わたしは空っぽになった財布と1人残された。
店内のBGMがしっとりとした曲調に変わり、閉店時間が近づくのを知らせるころ、Kがわたしの卓へ戻って来た。
「ただいま。ねぇ、このあと時間ある?」
勝った、と、わたしは充足感に思わず顔をほころばせそうになる。会計の時に感じた虚しさはすっかり消え去っていた。この質問は、営業後に店外で会ってくれる「アフター」という行為への誘いを暗に示すからだ。店員1人に対して複数の指名客が来ているときは、店員はアフターをする客—たいてい、より高額を使い、かつ長時間過ごすことを苦痛に感じない客—を選ぶことになる。今日はわたしが知る限りでももう1人客が来ているのにもかかわらず、彼はわたしを選んだ。その事実を噛みしめる。
「空いてるけど、どうして?」
わたしは甘い嘘を求めて、わざとアフターの誘いに気が付かないふりをして返事をした。
「営業終わったら2人きりになりたいなって。」
そう、これ、これが聞きたかった。
「ほかのお客さんもいるし疲れていると思うから、いいよ。わたし、始発まで1人でいる。」
「気遣ってくれて優しいけど……。俺がわたしちゃんと居たい。」
「ううん、いつもアフターしてくれるし、今日はいいよ。」
「なんでそんな寂しいこと言うの?だめ。命令だから。お店出て待ってて?約束。はい、立って、帰るよ。」
酒が入って大胆になったわたしは駆け引きで嘘をついてみたけれど、嘘のプロにはかなわない。気が付けば彼に手を引かれるままに店を出て、エレベーターに乗せられていた。
「来てくれてありがとう。すぐ行くから待っててね。」
閉まりかけるエレベーターのドア越しに、彼がわたしに微笑みかける。わたしは小さく頷いた。エレベーターが1階に着き、わたしは1人歌舞伎町の街に放り出される。とっくに新宿駅発の終電はなくなっているのに、街はいまだに賑わいを見せていた。彼が従業員への挨拶や締め作業を済ませて退勤するまでの30分もない間、わたしは決まってこの街を散歩する。歩き回っていれば、客引きや酔っ払いに話しかけられてもすぐに撒くことができるし、なによりこの街を眺めるのが好きだった。しばらく歩くと「トー横」と呼ばれるエリアにたどり着く。東宝シネマズの横、略してトー横には、「トー横キッズ」と呼ばれる少年少女が集う。歌舞伎町を傍から見ている人たちは、彼らとわたしのような「ホストクラブ狂い」が同様に見えるだろう。しかし、実際はそうではない。トー横はキャバクラやホストクラブが立ち並ぶエリアより駅から見てずっと手前にある。キャバクラやホストクラブを楽しむには成人していることと大金を持っていることが条件であり、それらをクリアした人たちによって構成される歌舞伎町はある意味で大人びている。一方、トー横でたむろして遊ぶ分には大金や身分確認は必要ない。そのためここには、家出をしてきた未成年や身分の証明ができず「歌舞伎町に入ることができない人」が集う。昨今報道で取り沙汰されている未成年の急性アルコール中毒やオーバードーズ、未成年淫行といった問題は、歌舞伎町の手前、ここトー横で起きている。だからわたしはここに来ると、自分だって世間から冷たい目を向けられる「ホストクラブ狂い」の1人なのに、世間様になったつもりで「トー横キッズ」を観察する。しゃがみこんでカップラーメンをすする中学生くらいの少女と、それを見守る涙袋を真っ赤に塗った30歳くらいの男。地面に転がったストロングゼロの空き缶と吐瀉物。地面に両手足を投げ出し天を仰ぐ青年は、この狭い夜空になにを思うのだろう。ちらりとスマートフォンの時計を見ると、時刻はもう午前1時半を回っていた。わたしは散歩に区切りをつけ、もと来た方面へ歩き始めた。そんなわたしの行動を知っていたかのようにKから電話がかかってくる。
「わたしちゃん、お待たせ!そろそろ出られるけど、いまどこ?お店の下来てほしいな」
Kと再び会える。しかも店の外で、しかもKに選ばれて。すっかり酒の酔いは醒めていたけれど、わたしは酔っ払ったときのように顔を紅潮させながら店へと歩き始めた。
「アフター」にはさまざまな種類があり、店員が客を食事に連れていくこともあれば、バーやカラオケで飲み直したり、ラウンドワンに遊びに行ったりすることもあるらしい。「大好き」という嘘を演出するため、店員は客に疑似的なデートを売ってくれるというわけだ。わたしがシャンパンを卸さないとき、つまり、比較的安価な会計で来店するとき、Kはわたしをカラオケに連れていく。炭酸の抜けたドリンクバーのコーラを啜りながら彼の歌に耳を傾ける時間が好きだった。しかし、わたしが高額のシャンパンを卸すと、決まって彼はアフターの場所にラブホテルを選ぶ。今日もきっとそうなるだろう。カラオケで過ごすのも、ホテルでそういう行為に及ぶのも、どちらも彼の嘘に真実味を帯びさせるに足るし、大金を使ったわたしを満足させる対価として十分に機能している。にもかかわらず、彼の中にはカラオケが「下」でホテルが「上」という序列が明確に存在している。その価値観はきっと、彼の勝手な思い込みではなくこれまでの経験によって形成されているのだろう。「いくら使ったらホテル行ってくれるの?」と執拗に迫ってくる客がいるのだと聞いたことがある。客はどうして性的関係を求めるのか。それは単に性欲のために起こるのだとは思えない。性行為とは、最も原始的な、本能的な姿を晒し合い、人体で最も秘匿とされる部位を受け入れること。これ以上に恥ずべき行為はあるだろうか?性行為は究極の承認だ。相手に性行為を許すことは、相手のすべてを承認した証と言える。ホストクラブの店員に性行為を求められたとき、客は、「彼が嘘を売るという業務の枠を超え、自分のすべてを承認してくれたのだ」と思うことができる。嘘を本当らしく演出するために、客に自身が承認されたのだと勘違いさせるために、彼らホストは「枕営業」を行うのだ。それならば、初めから「性行為をする」ことが業務になっているとしたらどうだろう。性行為が料金の対価として、所与のものとして提供されたとしても、消費者は究極の承認を得たと感じるのだろうか。そうに決まっている。だって、わたしは何人もそういう人を知っているから。
「ソープランド」という施設がある。個室の浴場でコンパニオンが入浴を介助してくれるのだが、客とコンパニオンは「うっかり」恋に落ち、「たまたま」そこに置いてあった避妊具とベッドで性行為に発展するらしい。売春行為は違法だが、自由恋愛だから黙認されるのだ、と。そういうことになっている。
わたしは気が付いたら、休日のほとんどをソープランドで過ごすようになっていた。朝7時から夜24時まで、窓もない、水黴臭い部屋で過ごした。大学が休みの間は泊まり込んでいたこともある。わたしはあの部屋が好きだったのだと思う。冷蔵庫にベッドにお風呂に、必要なものがぎゅっと詰まっている。有線で流行りの音楽が流れていて、ドレスやセーラー服にいつでも腕を通せる。スタッフはみんな優しくて、美味しいものを食べさせてくれて、帰りは家まで送ってくれる。お客さんもみんな口々にかわいいね、優しいねって褒めてくれた。わたしにとって一番満たされなかったものが満たされた。だから、わたしはここで働くことに依存していたと思う。Kに、よりも、稼いだ金に、よりもだ。客を満足させたいとか、店で一番の評価を取りたいとか、そういう真っ当なモチベーションはまったくなかった。ただ、わたしが満たされたかったのだ。安くない料金を払われて、容姿を褒められて、必要とされる。労働力として搾取されているのだとしても、肉体を消費されているのだとしても、射精をするための装置に過ぎなかったとしてもそれでよかった。おなじく客の方も、単純に性を発散するために来店する人は少なかったように思う。穴が開くほどわたしを見つめてきて、目を合わせてやると不器用に目尻に皺を寄せる客。「俺以外とこういうことしないで」と頼み込んできて、わたしのうん、という生返事に安堵の表情を見せる客。「俺、好きになっちゃった」とわたしの腕の中にすがりつく客。みんな、「満たされなさ」を抱えている。「誰かに認められたい」という「満たされなさ」を、性行為という究極の承認を得ることで満たそうとしている。部屋に入ってきた時には会話はおろか目を合わせることすらままならなかった客が、行為を終えたとたん饒舌になり、恋人同士かのような言動を見せる。わたしは何人も何度も、この豹変を見てきた。嘘—金の対価として与えられた性行為—によって、彼らは本当に承認されたと勘違いすることができるのだ。
わたしは、わたし自身はどうだろう。彼が、高額な飲食代の対価として与えるセックスをわたしはどう受け取っているのだろうか。嘘の演出だと思えているのだろうか。
Kと再び合流し、わたしは彼に手を引かれるがままテル街のほうに向かって歩き出していた。道中、地面にしゃがみこんでスマホの画面をにらみつける女や、バーの客引きのしつこい声かけに眉をしかめている女と目が合う。みんなわたしと同じで、アフターを待っているのだろう。一抜けさせてもうらうね、みんなも早く大好きな人に会えるといいね、なんて思いながら歩みを進める。適当なラブホテルに入り、まずはコンビニで買った酒とスナック菓子で乾杯する。勤務中のスーツ姿とは違い、カジュアルな格好で缶チューハイを流し込む彼の姿は、そこらへんにいる大学生みたいだ。わたしも店にいるときの緊張感はすっかり解けて、自然と口数が増えていく。他愛ない話をして笑いあったり、テレビから流れるニュースにあれやこれやと口をはさんだりして、ふつうの恋人どうしみたいな時間を過ごす。もう明け方が近く、歌舞伎町は静寂に包まれていた。外の世界から隔絶された、2人だけの世界。もはやここには、彼とわたしが「ホストと客」という嘘にまみれた関係だと証明するのは、もうわたしの理性しかなかった。蓄積したアルコールと眠気で視界がゆらぎ、意識を手放そうとしたそのとき、彼がわたしをやさしく抱きしめてキスをした。や、と手を振りほどく。きたないからだめ、という言葉が自然と口をついて出た。まだシャワーを浴びていないから、という意味ではない。わたしの身体は、嘘を買うために売ることのできる身体。おじさんたちを満たしてあげてきた身体。わたしにとってあなたは売り手なのに、あなたがわたしの身体で満たされてしまったら、あなたもわたしの買い手たちと変わらない。ぼんやりした頭にぎりぎり残った理性でそんなことを思う。
「わたし、枕、してほしいわけじゃない。いらない、そんなの。応援したいだけなのに」
回らない呂律で口ごもる。Kに、というよりも自分に言い聞かせたかった。Kは一瞬驚いたような顔を見せたかと思えば、わたしの目を見て「噓つき」と笑った。
「噓ばっかり。わかってるよ、俺は。ほんとは自分のことわかってほしいんでしょ。ほんとは、俺のこと応援してるとか、俺のこといちばんにしたいんじゃなくて、わたしちゃんが俺のいちばんになりたいんでしょ。わかってるよ、全部」
彼の口調は優しかった。どんな顔でKがそんなことを言っているのか、顔を見ようとするけれど視界が涙ににじんでゆく。すべてを見透かされて、目を背けていた自分の弱さをむきだしにされて、あまりに痛くて、わたしは涙を流すしかなかった。そうだ、私は認められたかった、こうやって認められたかった。丸裸のわたしをわかってほしかった。その承認欲求を満たそうと、お金を払って甘美な嘘を売ってもらっていた。金だけはある男性に嘘を売っていた。でもちがう、そんなことをして満たされていたわけではなかった。わたしは、そういうことでわたしを満たせるのだと、わたし自身に嘘をついていた。ずっと気がつかなかった、気がつきたくなかったわたしの弱さだ。Kは「泣いてんの、」と呆れながら、幼児のように泣きじゃくるわたしを抱き寄せてティッシュでごしごしと涙を拭ってくれた。その優しい感触に甘えながら、意識がまどろんでいった。
二日酔いの頭痛で目が覚めた。ラブホテルのベッドに深く沈みこんでいた身体を起こして時計を見ると、時刻がもう昼近いことを知らせる。横ではKがまだぐっすりと眠っていた。 無防備にこちらに投げ出されている手をそっと握ってみる。彼の手から伝わってくる生きた体温を感じながら、この手を離したくない、と思う。そうして、そう思ってはだめなのだ、と気が付く。わたしはもうわたし自身に、彼に嘘がつけない。全部ばれてしまったのだから。昨晩感じたそのいたみを噛みしめながら、物音をひそめて身支度を整える。ホテルのスリッパを脱ぎ、昨晩脱ぎ捨てていた靴に履き替える。足を通すと、ひんやりとした靴底の冷たさが昨夜の記憶をよみがえらせる。店内のBGM、グラスの音、彼の笑い声。夢のような時間だった。いや、すべて夢だったのかもしれない。すやすやと眠るKの横顔が目に留まった。まだ夢をみているような、うっとりとした美しいその横顔に心の中でありがとう、と呟いてみる。わたしは振り返ることなくホテルを出た。高く太陽が昇り、逃げるようにホテル街を歩く私のことを照らしている。昨晩は目にも留めなかった路傍の吐瀉物が途端に気持ち悪く感じる。歌舞伎町の街並みを抜けると、スーツ姿のサラリーマンや家族連れとすれ違う。帰ってきた、わたしは夜の街から帰ってきたんだ。一歩一歩歩みが力強くなる。飛び込むように新宿駅を出る電車に乗った。スマートフォンを開き、少しためらってからKのLINEをブロックした。もしかしたらまたKに会いたくなるかもしれない。嘘を消費して満たされた気持ちになりたくなるかもしれない。そんなことはわからない。とにかくもう、今はKの前から消えたかった。
たくさんの時間とたくさんのお金をかけた関係だったけれど、所詮わたしとKの関係をつなぎとめていたのは嘘だ。嘘の買い手と売り手が結んだ共犯関係から、わたしは足を洗った。それだけのことだ。こうしてわたしは、夜の歌舞伎町が見せてくれた夢から醒めた。
嘘を嘘と咎めず、甘受し、そうして結ばれた共犯関係は、美しくて、高貴で、心地良くて、そうして、脆い。