【 共鳴して涙を流すことの大切さ💧】 前回を読んでくださったことに感謝を込めて
お正月早々、重たい話を書くことには、私なりの覚悟がありました。
それは、おめでたいことは、明るい話題ばかりではないことに少しでも気づいて頂きたかったことです。
去年の12月から私は自分で持て余す程泣いてばかりいましたが、ありがたいことに連れ合いは、「そーゆーコトもあるよね」と、受け入れてくれていました。
ですから、様々なことに出会う度に安心して涙を流し続けていた訳ですが、不思議と浄化されていくような感覚があり、次第にぼんやりと光さえ感じ始めていました。その涙とは、共鳴した時に流す涙だと気づき始めました。特に本や映画や音楽やアートやドラマに触れた時、「疲れたから、もうイイヨ〜……」と思うほどよく涙を流していました。極め付けは映画『ドライブ・マイ・カー』のラストの劇中劇でもある『ワーニャ伯父さん』のソーニャの台詞でした( この映画上では、ソーニャは聾唖者の設定で、手話で語るのですが…)。なんと、この台詞は、私が高校生の時にも出逢っており、その時もさめざめと涙を流した記憶があります……。
作者のチェーホフの凄さもありますが、劇中の世界に共鳴している…としか思えない程に静かにピッタリと寄り添ってくれている大きな温かさも感じました。
「自分だけじゃない」と心の底から感じることへの静かな静かな確認は、「一人で生きている訳じゃない」という静かな安心感でもありました。『ワーニャ伯父さん』の内容は長くなるので割愛させて頂きますが(名作なので、ご存知の方も多いことかと思いますが、まだご存知でないのなら、是非一度ご覧頂きたい作品です)
ワーニャ伯父さんが
「なんて辛いんだろう!ソーニャ、お前にこの辛さがわかればなぁ」と呟きながら姪のソーニャの髪を手で撫でながら呟くと、ソーニャがこう語るのです。
「仕方ないわ、生きていかなくちゃならないんだもの! 」
間。
「ワーニャ伯父さん、生きていきましょう。
長い長い日々を、長い夜を生き抜きましょう。
運命が送ってよこす試練にじっと耐えるの。
安らぎはないかもしれないけれど、ほかの人のために、今も、年を取ってからも働きましょう。
そしてあたしたちの最期がきたら、おとなしく死んでゆきましょう。
そしてあの世で申し上げるの、あたしたちは苦しみましたって、涙を流しましたって、つらかったって。
すると神様はあたしたちのことを憐れんでくださるわ、そして、ワーニャ伯父さん、伯父さんとあたしは、明るい、すばらしい、夢のような生活を目にするのよ。
あたしたちはうれしくなって、うっとりと微笑みを浮かべて、この今の不幸を振り返るの。
そうしてようやく、あたしたち、ほっと息がつけるんだわ。
伯父さん、あたし信じているの、強く、心の底から信じているの……。
(ワーニャの前に跪いて、彼の両手の上に頭を置く。疲れきった声で)そうしたらあたしたち、息がつけるの!
あたしたち、息がつけるんだわ!
あたしたちは天使の声を耳にし、一面にダイヤモンドをちりばめた空を目にするの。
地上の悪という悪、あたしたちのこうした苦しみが慈悲の海に浸されて、その慈悲が全世界をおおい、あたしたちの生活がまるで愛撫のように穏やかな、やさしい、甘いものとなるのを目にするの。
あたし信じているわ、そう、信じてるの……。
(ハンカチでワーニャの涙を拭ってやる)かわいそうな、かわいそうなワーニャ伯父さん、泣いていらっしゃるのね……。
(涙声になって)伯父さんは人生の喜びを味わうことはなかったのよね。
でも、もう少しの辛抱、ワーニャ伯父さん、もう少しの辛抱よ……あたしたち、息がつけるんだわ……。
(ワーニャを抱く)あたしたち、息がつけるようになるわ!
あたしたち、息がつけるようになるんだわ!」
____ワーニャ伯父さん/三人姉妹 (光文社古典新訳文庫)
チェーホフ (著), 浦 雅春 (翻訳) より
……この、「息がつけるようになる」という台詞に、深い愛と大きな赦しを感じるのは私だけではないのではないのでしょうか。
この出逢いは、私にとってはこの上もない出逢いでした。
どうしようもなくままならないものから、やっと解放される瞬間の光がありました。
私もやっと「息がつけた」からです。
その光は忘れられないものとなりました。
本当の辛さを体験したからこその、出逢いでもあったのでしょう。
泣くのも悪いものではありませんネ(モノ凄く疲れますけど……)
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