舞台「おわりはじまり」と農
数ヶ月ぶりに東京へ出た
みなかみで一ヶ月に会うくらいの人のシャワーを5分くらいの東京駅で浴びたけど
本当に来てよかった
ちょうど6年前の7月
はじめて麿赤兒の「パラダイス」という舞台を観た
その時の衝撃はいまでも脳にこびりついている
小さくなぁれ、小さくなぁれ
小さなもののなかにこそ喜びがある
舞台に言葉はなく
うめき声、奇声、呼吸、足音、それからテクノミュージック
観る人にたくさんの想像の余地をあたえてくれる
これまでの題材には
パラダイスより以前にムシ、ウイルスなど
人間を越えた世界が擬人化されているようだ
今回のは「おわりはじまり」
2部に分かれていて
わたしが観てきたのは「おわり」
それは宇宙のおわりはじまり
子どもも素粒子もブラックホールも銀河もすべてが溶けあい、集まり、解放されて
振動しつづけ、止まり、また振動する
動と静
光と闇
大きく小さく
有と無
涙が止まらなかったのは
ただ感動したのではなくて
心のずっと奥に
遠い昔からあるものに触れていたから
そんな気がする
すべてが溶けあったとき畑のことを思った
菌も微生物も植物も虫も鳥も動物もわたしも
そこに要らないものなんてなく
反対にそこにある意味などなく
すべてが溶けあう
そして宇宙から見れば一瞬のうちにすべて無になるときがくる
一時の生命の美しさと儚さ
畑にいて自然と向きあうと
予定通りにいかないことがたくさんある
理解できないことばかり
自分の無知や非力さを思い知らされる
だから惹かれ
自然のまえで謙虚になれるのかもしれない
意味が分からないけれど
なぜか心動かされることに
分からないなりに真剣に向きあうと
目の前の同じ世界が
昨日とちょっとだけ違ってみえるようになるかもしれない
それは芸術も農も同じと思う
宇宙の擬人化なんて
ちょっとファニーに聞こえるけど
舞台のうえで
動き止まりまた動く筋肉
力強く、柔軟で、繊細で、見たこともない身体の動き
肉体の神秘と美しさを感じずにはいられなかった
農が機械化される以前
鍬一本で身体をあやつっていた人たちの動きは
きっと美しかっただろう
いまや掃除もAIがやってくれる時代
雑巾のしぼりかたも
力の入れかたも分からなくなって
身体が本来もっている秘められた機能を
わたしたちは知らないまま
そうやっておわってゆくのだろうか
サピエンスはどこにゆくのか?
舞台の最後のまじないのような言葉
宇宙のおわりから
わたしはいま人間が行くさきを考える
そしてその「はじまり」を観ずにはいられなくなっている