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春風に撫でる

 春は始まりの季節と言うけれど、小さな嘘と一緒に、その日わたしの恋は終わった。

「わたしたち、別れましょう」
「そんな、……どうして?」
「初めから遊びだったのよ。そんなことにも気づかないで、馬鹿な人ね」

 泣き顔は見せたくないから、振り返ることはしなかった。
 どうか追いかけてこないで。そう願いながら、わたしは走る。
 わたしにはもう時間がないと、そう解っていたから。

 わたしがまだ小さな丘にひっそりと植えられた桜の木だった頃、桜の花びらの下で泣いているあなたを見た。
 堪えきれない感情が溢れ出たみたいに、透明な雫が静かに零れ落ちていた。これまで見てきたどんな物よりも美しい涙だと思った。ひとしきり泣いたあと、涙を拭いて、真っ直ぐに前を向いて歩いていく姿に見惚れていた。

 それがわたしの、生まれて初めての恋。

 だからあの日、わたしは神様にお祈りして、ほんのひと時だけ人間の命を貰ったのだ。
 桜が散ると共に尽きてしまう、はかない命を。

 その全てを使って、わたしはあなたを愛したけれど。
 今はこの丘を染めている桜色も、きっと明日の今頃には全てが散ってしまう。
 だからもう、さようなら。

 わたしはいま、桜の枝に腰掛けて、泣いてるあなたを見下ろしている。
 いつか見たあの日の風景と同じ。変わらない涙の美しさに胸が締めつけられる。

 今すぐ駆け寄って、昨日の言葉は全部嘘だよって、あなたのことを抱きしめたいけれど、もうわたしはあなたに触れることもできない。

 だからせめて。
 わたしはふぅと優しく息を吐く。

 春風に桜の花びらを乗せて、彼の頬をそっと撫でてみる。

 

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