春風に撫でる
春は始まりの季節と言うけれど、小さな嘘と一緒に、その日わたしの恋は終わった。
「わたしたち、別れましょう」
「そんな、……どうして?」
「初めから遊びだったのよ。そんなことにも気づかないで、馬鹿な人ね」
泣き顔は見せたくないから、振り返ることはしなかった。
どうか追いかけてこないで。そう願いながら、わたしは走る。
わたしにはもう時間がないと、そう解っていたから。
*
わたしがまだ小さな丘にひっそりと植えられた桜の木だった頃、桜の花びらの下で泣いているあなたを見た。
堪えきれない感情が溢れ出たみたいに、透明な雫が静かに零れ落ちていた。これまで見てきたどんな物よりも美しい涙だと思った。ひとしきり泣いたあと、涙を拭いて、真っ直ぐに前を向いて歩いていく姿に見惚れていた。
それがわたしの、生まれて初めての恋。
だからあの日、わたしは神様にお祈りして、ほんのひと時だけ人間の命を貰ったのだ。
桜が散ると共に尽きてしまう、はかない命を。
その全てを使って、わたしはあなたを愛したけれど。
今はこの丘を染めている桜色も、きっと明日の今頃には全てが散ってしまう。
だからもう、さようなら。
*
わたしはいま、桜の枝に腰掛けて、泣いてるあなたを見下ろしている。
いつか見たあの日の風景と同じ。変わらない涙の美しさに胸が締めつけられる。
今すぐ駆け寄って、昨日の言葉は全部嘘だよって、あなたのことを抱きしめたいけれど、もうわたしはあなたに触れることもできない。
だからせめて。
わたしはふぅと優しく息を吐く。
春風に桜の花びらを乗せて、彼の頬をそっと撫でてみる。
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