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【雑文】知識チートと新発見

 
 僕には、単純で根本的な原理を見つけてみたいという欲求が昔からある。
 
 ここで言う根本的な原理とは、例えば「てこの原理」や「サイフォンの原理」、「アルキメデスの定理」等々、大昔の時代に発見された原理のことだ。
 もう少し時代を進めれば、「万有引力の法則」なども含まれるかもしれない。
 
 現代の生活は非常に快適なのだけれど、いわゆる古代や中世の時代に生まれてみたかったと、たまに思ったりすることもある。
 その理由はまさしく上に書いたようなことで、今の科学界にはあまりにも素人の入り込む余地が少なすぎるように思う。
 
 あくまで僕の持っているイメージだけれど、上記のような原理を見つけるためには、緻密な観察とそこに至るための発想の飛躍こそが必要になるのではないだろうか。
 そうした飛躍を起こすためにはある種の天才性が必要で誰にでも可能なことではないのだけれど、非凡な発想さえあれば手が届くところにあるように思う。
 
 もちろん現代科学界にもそうした未発見の原理というのはいくらでも残されているのだろう。けれどその発想に至るまでに必要な科学的下地が余りにも多すぎる。
 膨大な先行研究を理解していなければ手を出すことすらできないような、深淵の世界のように感じてしまうのだ。

 子供の頃にニュートンの伝記を読んだことがあったのだけれど、そこに有名なリンゴのエピソードが書かれていた。
 誰でも知っているだろうけれど、庭の木からリンゴが落ちるのを見て万有引力の法則を思いついたという、例のエピソードだ。
 
 それを初めて読んだ時僕は、当たり前じゃん、と思った。リンゴが落ちるのなんて当たり前じゃん、わざわざ見なくても分かるじゃん。と。
 
 けれど大人になって分かったのだけれど、ニュートンの天才性はそういうことではない。
 物が落ちるという当たり前の現象を見て、その裏に隠れた法則に気が付くことが、ニュートンの天才性なのだ。
 
 リンゴが地球に引かれるのと同時に、地球もまたリンゴに引かれている。
 万有引力の発見には、そうした発想の飛躍がある。

 あるいは、科学ではなく発明に関しての方がその感覚は強いかもしれない。
 
 現代においてなにか革新的なものを作りだそうと思うなら、技術力が必要となる。物理や化学、情報科学といった専門的な知識も必要だろう。
 だが古代の発明品、例えば車輪や水車といったものには、技術力以上に発想力が必要だったように思う。
 
 いわゆるなろう系と称される異世界転生系の小説には一定の定型があって、その中の一つに「知識チート」と呼ばれるものがある。
 知識チートとは、現代の記憶を持ったまま中世の世界に転生した主人公が、(現代から比べれば遅れている)中世世界で現代知識を使って活躍する、といった内容だ。
 
 実際には原料も加工技術も無い世界に知識だけがあったところで、何かを作りだすということは不可能なのかもしれない。もし僕が現代の記憶を持ったまま中世に行ったところで、目覚ましい活躍ができるかは怪しい。
 
 それでもこうした妄想は、非常に夢のある話だとは思う。
 もし中世に転生したら〇〇を発明してやるぜ、とか、もし古代に生まれていたら絶対〇〇の原理を発見できたのに、とか。
 そんな知識チートに、僕はどうしても憧れを抱いてしまう。
 
 知識チートが、なろう系の中の一つのテンプレとして受け入れられているのも、もしかしたら僕と同じように感じている人が多いからなのかもしれない。

 子供の頃に、どうして勉強をしなくてはいけないのかということを考えたことのある人は多いと思う。
 
 そんな風に思ってしまうのは、多分凡人とって学問の中に新発見をする余地が残されていないからなのだという気がしている。
 
 科学の発展は我々一般人に豊かな生活をもたらしてくれた一方で、我々から科学そのものを取り上げてしまったのかもしれないと、なんとなく思う。
 
 

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