100秒
気が付くと、教室にはもう自分しかいなかった。
クラスのみんなは明日からの夏休みが待ち遠しくて、何時までもこんなところに留まってなんかいられないのだろう。ホームルームが終わると、競い合うように外へと駆け出していった。
開けっ放しの窓から時折風が吹いてきて、カーテンを揺らす。頬にあたる風は温くて、じっとりと体温が上がっていく気がした。
私はうんざりする気分で、机に入りっぱなしになっている教科書や参考書をカバンに詰めていく。
こんなことなら面倒くさがらずに少しずつ持って帰っておけばよかったと思うけれど、今更手遅れ。
──そんなことを考えていると、窓の外、グラウンドから私の名前を呼ぶ声が聞こえてきた。
グラウンドから私の姿なんて見えるはずないのに。どうして私がまだ教室に居るって分かったんだろう。
私は苦笑しながら、手を止めてカーテンの隙間から覗く。グラウンドには瀧本が居て、日に焼けた小さな身体をめいっぱい大きくしながら、私に向かって手を振っている。
私は声を返そうとして、けれど瀧本の姿を見たら鼻の奥がツンとしてしまって、思わずカーテンの裏側に隠れた。
ゆっくりと時間をかけながら荷物を全部カバンに詰めて、入りきらなかった分を両手に抱えて。それからたっぷり100秒数えてから、心の中で唱える。
もういーかい? もういーよー。
先に帰っていてくれれば良いと、そう思っていたのに。
けれど瀧本はやっぱり、昇降口で私を待っているのだった。
「おせーよ」
「……先帰ってて良かったのに」
「そんな寂しいこと言うなよー。明日から夏休みなんだからさー」
「何がだからなのよ」
「まあ良いじゃん。ていうか、荷物多すぎじゃね」
そう言って瀧本が私の荷物をそっと奪ってしまうから、私はもう何も言えない。
「ほら、帰ろうぜ」
瀧本は自転車の前かごに私の教科書の束を載せて、自転車を引いて歩き出す。私もとぼとぼと、その後に続く。
並んで歩きながら、瀧本は本当に楽しそうに笑う。夏の日差しにも負けない、太陽のような表情だと思った。
「なんでそんなにテンション高いのよ」
「だって、夏休みだぜ? こんなに楽しみなこと無いだろ」
「……そう?」
「来年には受験だから呑気に遊んでられないしなー。こんなのも、もう最後かもしれないんだぜ?」
「冬休みになったら同じこと言ってそう」
「そりゃそうだろ。高二の冬休みだって、たった一度きりだよ」
「ふぅん」
瀧本は未来をまっすぐ見つめている。私はそれが眩しくて、足元ばかり見ながら歩いた。
「逆に、なんでそんなにテンション低いんだよ」
私の顔を覗き込むようにしながら、瀧本が言った。
「……色々あんのよ」
「なに。体調でも悪いの?」
「そういうのじゃない」
「なら良いけどさ」
ちょっと考えた後で、瀧本はまるで今思いついたみたいな風に、「じゃあ、少し遠回りして帰ろうぜ」と言った。
ちょっと迷ったけれど、私も「良いよ」と返す。
蝉の声がうるさくて、やたらと耳に響いた。
*
いつもの曲がり角を曲がらずに、瀧本について、そのまままっすぐ歩く。
この先は河原の土手道になっている。遮るものが無くなったせいで、さっき以上に日差しが強くなった気がした。
「そういえばさ、夏休みってなんか予定ある?」
瀧本が川面を眺めながら、なんでもないみたいな口調で言う。
「……別に何にも無いけど」
「なんだよ。勿体ないなぁ」
「瀧本は、なんかあるの?」
「そりゃ、色々だよ。バイトもしたいし、プールとか花火とかキャンプか、やりたいことばっかり」
「それは希望であって、予定では無いけどね」
「良いだろ。やりたいこと、一個ずつやってくんだよ」
「羨ましいね」
一瞬の沈黙。カラカラと、自転車の車輪が回る音が聞こえてくる。
もしかしたら、本当のことを言うのなら今がチャンスだったのかもしれない。
けれど私が口を開くよりも早く、瀧本が言う。
「来週ここでお祭りあんじゃん?」
「うん」
「予定無いならさ、一緒に行かねえ?」
「……」
「嫌だった?」
嫌じゃない。
でも、そう言うことが出来なくて、私は誤魔化す。
「行けたら行く」
「行けるでしょ」
「……考えとく」
「なんだよそれー」
瀧本は子供っぽく唇を尖らせて、けれど大して残念でもなさそうだ。
「そろそろ帰ろっか」
私は頷きながら、このまま川沿いを歩いていけば海までたどり着けるのかなとか、そんなことを考えていた。
私たちは土手を降りて、本来の帰り道に戻る。
なんとなく無言のままで、その代わりさっきまでよりもずっとゆっくり歩いた。
ほどなく、いつもの別れ道に着いてしまう。この角を曲がると、私の家の方。瀧本は真っすぐだ。
このまま別れてしまうのは嫌で、私は瀧本に振り返る。
「……瀧本さ、明日ひま?」
「んー、暇だけど。なに、どっか遊びに行く?」
私は小さく首を振った。
「そうじゃないんだけど」
「なに?」
「学校の、私の机に忘れ物しちゃって、明日とってきてくれない?」
「いや、自分で行けよ」
「明日、私予定あるの。だから、お願い」
「……まあ、良いけど」
「ありがと」
それは本当は忘れ物なんかじゃなくて、自分が居た証を何か残したくてわざと置いてきたものだったのだけれど。もし誰かの手に取られるというなら、瀧本に受け取って欲しかった。
瀧本私の気持ちなんて知りもしないだろうけど、小さくため息をついて肩をすくめた。
「その代わり、来週はお祭りな」
「……行けたら行く」
「はいはい。約束だからな」
瀧本の笑顔が眩しすぎて、私は目を逸らしながら言う。
「……それじゃ、もう行くね」
「おう。また明日な」
瀧本が手を振っている。
別れ道を歩きながら、私は心の中でたっぷり100秒。
もういーかい? もう、居ないよね?
先に帰っていてくれれば良いと思ったのに。何度振り返っても、瀧本はずっと、こっちを見ながら笑っていた。
私は上手く笑い返すことができなくて、それならいっそのこと、涙の一つでも流してみせられたら良かったのにと思っていた。
*
家に帰ると、お母さんが慌ただしく部屋の片づけをしていた。
私に気づくと、段ボールに食器を詰めていた手を止めた。
「おかえり」
「……ただいま」
「なぁにあんた、すごい荷物ねぇ。だから早めに持って帰っときなさいって言ったのに」
「うっさいなぁ」
「ちゃんと段ボールに詰めときなさいよ。明日の朝には引越し屋さん来ちゃうんだからね」
「分かってるよ!」
自分だって、まだ終わって無いくせに偉そうに!
苛立ちと一緒に、蓋の閉じられていない段ボールの一番上に教科書を乱雑に投げ捨てる。
物が減って、箱ばっかりが四角く積み上げられた殺風景な部屋。私はベッドに突っ伏して、胸の痛みを堪えながら、ただじっとしていた。
ふと気が付くと、いつの間にか雨が降ってきていた。電気をつけていない部屋は真っ暗で、雨音だけがひっそりと聴こえてくる。
お腹が減っていたけれどリビングに行く気にはならなかった。お母さんも呼びに来なかったみたい。
どれくらい寝ていたんだろう。
時間を見ようとスマホを手に取ると、瀧本からメールが来ていた。
『明日忘れ物取ってきたら、家まで届ければいいの?』
なんて返事をしたら良いか分からなくて、胸の奥が痛んだ。
『本当は、私明日転校しちゃうんだよ』
どうしてもそう言うことができなくて、少し考えてから違うことを伝えた。
『朝一で来て。急いで』
あのとき。別れ道の私は、サヨナラが下手くそで、上手く笑えなかったから。
だからもし、明日、私が居なくなる前に瀧本が間に合ったなら。
その時は笑って、ちゃんとこの想いを伝えたい。
心の中で100秒間。数えている間に瀧本から『わかった』という返事。
私はその文字を見つめながら、いつまでも眠れないでいた。
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