![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/164880942/rectangle_large_type_2_be79eb65c025e19e010e633234f0179e.png?width=1200)
『神々の山嶺』
クライマーを描く物語である以上、必然的にキャラクターの山を登る運動を描くことになるわけだが、山登りという上下運動は、縦の構図よりも、左右に伸びる斜面を下手から上手(あるいはその逆)というふうに左右の運動として提示された画面のほうが印象に残る。上下に動くキャラクターの動線よりも上手下手の動線の方が圧倒的に有効且つ効果的に感じられるのは、物質的な制約として画面が横長に伸びる長方形という形式を持つからだ。例えば、下から上へと動くキャラクターを律儀にPAN UPして提示するとき、必然的に望遠レンズで撮らざるを得ず、高さよりも遠さの印象に近づいてしまうと述べたのは蓮實重彥だったか。PAN UPのカットだけでなく、この作品では上下運動を捉えるカットが多少とも存在するが、そのほとんどの場合運動それ自体よりかはキャラクターの表情芝居が印象に残ってしまう。もし高さを表象したい場合、つまり垂直の世界の上下関係をより鮮明に浮き上がらせたいのならば、俯瞰で捉えられた見上げる顔を描くほかない。(「縦の運動を強調しようとするとき、映画は運動する事物そのものよりむしろその対象を凝視する視線を画面におさめ、その視線の方向によって不在の運動を表象する。縦の世界を貫く運動に最適と思われる仰角撮影は、逆に俯瞰撮影の介入によってより有効なものとなるのだ」(『映画の神話学』))。終盤でエベレスト山頂を登る羽生と深町。先頭で登る羽生の“高さ”への挑戦を強調させるのは彼を見上げる俯瞰の深町の視線である。
ところで、都会のビルの高層階にいるかつてのパートナーであった友を道路から見上げる羽生の視線は印象的である。山では常に先頭で登り決して誰かを視界に収めるために見上げるということをしなかった羽生だが、この場面で例外的に見上げることをしたのは都会と山という二項の対立を浮かび上がらせる意図があるのは明らかである。羽生は明らかに後者に惹かれた存在である。都会の街に立ち並ぶビル群、というよりかはその垂直線性に耐えられないように見える。この男が好むのは画面を斜めに分割する山の傾斜線である。何故、ラストで羽生は下山できなかったのかのヒントはこの点にありそうである。
それにしてもこの作品を劇場の大きいスクリーンで見たかった。Amazonプライムで何度も見てつくづく思う。雄大なヒマラヤ山脈の背景美術、素晴らしい色彩、レイアウト等をあまり画質が良くないパソコンのモニターや矮小化されたスマホの画面でしか見れないのは相当不幸だなと思う。