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存在の唐突な出現ー山田尚子についてのメモー

 アニメの良さを魂が宿る瞬間を見れることと述べる山田尚子の演出は、キャラクターに魂や命を与えているというよりかは実在感というか存在感を与えているように見える。特に『リズと青い鳥』はそれに専念した作品である。少女たちの振る舞う仕草や癖のようなもの、息遣いや瞬きを詳細にそして繊細に作画によって記述していきその積み重ねによって存在感を生んでいく。作画の積み重ねだけでなく、望遠あるいは手持ち風にレンズ処理される撮影効果、そして音響の効果も加味し、少女たちの存在感は強調されていく。もちろんその存在感は錯覚に過ぎない。だがその錯覚に酔いしれる心地良さを拒否する者にアニメを見る資格はない。セルという物質的な生々しさから遠ざかり、いかに人間の物質的な生々しさを掴もうとするかの指向性というか目的が山田尚子にはあるようだ。その一つの達成が『リズと青い鳥』なのである。
 キャラクターの身振りというか細かな仕草を溢れないように掬い上げていく彼女の演出の代表例として「足の描写」を挙げる論者は多い。それは彼女自身も認めていることだ。それだけでなく、下記の論文によると「足の描写」には三つの特徴があると述べる。

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/287434/1/HES_ArtLetters_1_187.pd

一つ目はフェティッシュの対象として。二つ目は象徴的意味合いとして。三つ目は表情を表すものとして。どの指摘も間違っているようには見えない。しかし「足」のみに視線が注がれるのはどういうことか。山田自身、意識的に足の描写に力を入れていることを公言しているにせよ、あまりにも素朴主義的ではないか。山田尚子の演出する代表例として「足の描写」のみを指摘すること自体が彼女の作品を矮小化することになりはしないか。画面にはキャラクターの豊かな身体の動きの作画の記述が満ちており、「足の描写」のみ絞って彼女の作品の全貌なり本質をとてもじゃないが語り尽くすことはできない。
 「足の描写」が多様な形で記述されているのを認めるのであれば、「手の描写」もまた多様な形で記述されているのを認めなければならない。そもそも彼女の作品にはどれも手によるテクニカルな芝居が一貫して認められる。『けいおん!』や『リズと青い鳥』では楽器の演奏が、『たまこマーケット』や『たまこラブストーリー』ではバトンによる演技(または餅の製造)が、『聲の形』では手話によるコミュニケーションが、『平家物語』では琵琶の弾き語りが、『彼の奏でるふたりの調べ』ではピアノのタッチや絵を描くことが主要なキャラクターの手によって演じられ、作品を活気づけていく。また、「手の描写」も「足の描写」と同じ特徴を持つ。つまりテクニカルな芝居だけでなく、『彼が奏でるふたりの調べ』を見ればわかるようにフェティッシュの対象として(特に梶谷凛の袖口から覗かせる手を見よ)、『たまこラブストーリー』ではバトン/糸電話のキャッチに託された象徴的意味合いがあり、手の表情にしてもどの作品にもキャラクターのその時の感情を表す瞬間がある。「足の描写」のみによって彼女の芝居設計を語ることは少々無理があるように思う(「山田ハンド」なるネーミングがネット上にはあり、自分もこの名前の定着を提案したく思います)。
 しかしながらこの種の絶対化は慎まなければならない。つまり「足の描写」や「手の描写」のみ絶対視することをだ。何故なら画面の中に並べられ且つその連鎖で提示されている諸要素はあくまで相対的な関係を結んでいるからだ。ある諸要素が絶対的に存在する画面などありはしない。「足の描写」なり「手の描写」なりそれ自体のみが画面に映るわけではなかろうし、そもそも映像はカットの連鎖で構成されている以上その中で描写は初めて描写として意味をなす。手や足のみに代表させるのではなく、あくまで振る舞う身体の動きの一つとして捉え、身体が演じるその他の所作にも目を配ることが必要である。
 ところで山田尚子は細かな芝居の積み重ねでキャラクターに存在感を与えていると述べたが、そのような演出はキャラクターの心情を我々に伝えるだけで、作品の説話構造にほとんど影響を与えない。細かな芝居を積み重ねるという加算の方法では物語の進展には寄与しないのだ。むしろ、突然一人のキャラクターがもう一人のキャラクターの前に現れる瞬間をはさみ、その前過程を省略することで物語を進展させる場合が彼女の作品には認められる。細かな芝居の積み重ねで物語を駆動させるのではなく、キャラクターがいきなり姿を現しその存在を主張することで物語に展開を生ませるのだ。ただ驚くしかない予告なしの唐突な出現。例えば劇場版の『けいおん!』の山中さわ子がそうである。オープニングが終わり各キャラクターが各々の机に座り、お茶菓子を用意し乾杯と言いながら紅茶を注がれた複数のカップがカチンと音を鳴らせるその時に、突然山中さわ子の持つカップがフレームINしてくるのだ。このようにギャグテイストで描かれる場合もあれば、『たまこラブストーリー』ではシリアスな場面で出現することもある。この作品で唐突に出現する役を任されるのは常盤みどりである。映画の終盤、糸電話の紙コップを机の上に置き、幼馴染の大路もち蔵が来るのを待つ白川たまこのいる教室に何故か彼女がやってくる。しかも学校は休校である。他の作品にも同じように予告なしの唐突な出現を山田尚子は描いている。『聲の形』では永束友宏が手話学校の屋内に唐突に主人公の前に姿を現すし、植野直花は主人公の乗る自転車の後ろの荷台に座るために唐突にフレームINしてくる。『平家物語』では第一話で主人公のびわがいきなり平家の屋敷に現れたのも驚くしかない。『リズと青い鳥』では終盤、作中これまで一度も訪れたこともなかったしその素振りも見せなかった傘木希美が生物学室の中に唐突に出現する。『彼の奏でるふたりの調べ』では学校の駐輪場で梶谷凛が主人公のたまみの前に唐突に現れる。これは一体なんなのか。よくわからないが、これらの唐突な出現は作品の説話構造に大きな影響を与える契機となっているのは間違いない。『けいおん!』では唯たち五人に卒業を意識させその後のロンドン旅行へ行かせるきっかけになったと言ってもいいし、『たまこラブストーリー』ではみどりはたまこをもち蔵の元へ向かわせるきっかけを作る。『聲の形』では永束の登場により主人公は西宮硝子と再び出会うことが叶い停滞していた物語に流れを生むだろうし、植野の登場もまた西宮硝子に主人公に対する恋慕の情を意識させるきっかけを生ませるだろう。『平家物語』ではその栄華と没落を観察者として見定める役として平家一門に身を寄せることになり物語が進められる。『リズと青い鳥』では希美とみぞれは互いに本心を剥き出しながら対話する機会を得、その関係値に一応の区切りを見出すことになるだろう。『彼の奏でるふたりの調べ』では二人のその後の関係に進展を齎すだろう。
 丹念にこれでもかと思わせるほどにキャラクターの細かい芝居を積み重ねてその存在感を演出する山田尚子という演出家は、しかしここぞという場面でキャラクターが登場するその前の過程というか伏線めいたものを大胆に省略する。省略することで物語に流れを生ませているのだ。結論めいた結論はない。そのような瞬間があるとだけ指摘し本文を終わらせる。